11月6日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、385(1)434(1)532(1)91(1)です。本日は、聖徒の日(永眠者記念日)礼拝です。

礼拝説教       ヘブライ11:13~16「天の故郷」    2022.11.6

 今日は、11月の最初の日曜日です。教会暦では、聖徒の日(永眠者記念日)です。考えてみれば、新型コロナウィルスの感染のことや教会堂の増改築のこともあり、久しぶりの日のように思います。新しい教会堂になり、写真もどのように飾るかを、特に伝道委員会で相談しながら、このようにスマホで撮影し、紙に印刷して飾るようにしました。この日に何とか間に合ったという気持ちが本心です。本当に良かったです。礼拝堂に飾ってある写真は、すでに天に召された方々です。ここにいる私たちは、この方々とかつて共に歩んでいました。それが、この地上の歩みを終えられて、神のみもとで、安らかに過ごしておられる方々です。

 私たちが、教会の礼拝において、聖徒の日(永眠者記念日)の礼拝を守る意味を考えていきたいと思います。信仰の先輩の方々、ここに飾られている1人1人、それぞれの人生の歩みをしておられました。それが、地上の歩みを終える時が来て、神のみもとへと召されていきました。1人1人の歩みを思い出しながら、どのような歩みだったのかを、私たちが思い出し、確認をするのです。そして、私たちもいつの日か、この地上の歩みを終える日が来ることを覚えるのです。私たちの歩みは、神によって、それぞれ命を与えられて、この地上の歩みをしていきます。1人1人違う歩みです。同じ歩みはありません。しかし、死ぬ時を迎えるのです。この地上に生きている者はすべて、死ぬ時を迎えるのです。これが誰もが避けることのできない現実です。

 私たちの日常生活は、なるべく死ぬことを考えないで、生活していると思います。死ぬことはできるだけ考えることをしないのです。それは、とても辛い作業だからです。できれば、避けたいことだからです。死を考えないですめば、それでいいと考えています。しかし、死は必ずやって来るのです。特に、身近な者の死は、その現実をはっきりと知らされます。とても辛いものです。死とどう向き合えばいいのか、私たちにとって、とても大切なものです。

 さて、私たちは死んでしまったら、いったいどうなるのでしょうか。どこに行くのでしょうか。今日の説教の題を「天の故郷」としました。「故郷」とは、いったい、私たちにとって、どのようなものでしょうか。「故郷」「ふるさと」は、どのようなものでしょうか。生まれた場所でしょうか。ここにいる私たちにとって「故郷」とは、どのようなものでしょうか。

童謡で「ふるさと」というものがあります。「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川、夢は今もめぐりて、忘れがたき故郷」という歌詞です。私には、この童謡に忘れられない思い出があります。東日本大震災が起って、東北の被災地にボランティアとして何度が行ったことがありました。避難所や仮設住宅などの集会所で、この「ふるさと」を皆さんと一緒に歌ったのです。被災された皆さんが涙を流しながら、歌ってくださったのです。そのような経験は何度もありました。被災された方々にとって、ふるさとはひどい状況になってしまいました。それでも、かつてのふるさとを思い出しながら、涙を流されたのです。

人にとっても「故郷」は、大切なものでしょう。それを失うことは大きな悲しみです。

 今日の聖書の箇所は、信仰に生きた人々のことが書かれてあります。特に、旧約聖書に出てくるノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセなどです。その人たちは皆、信仰を抱いて死にましたとあります。信仰とは何でしょうか。ヘブライ11:1に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあります。「望んでいる事柄」や「見えない事実」とは、何でしょうか。そして、信仰に生きた人々は、約束されたものを手に入れませんでしたとなっています。はるかにそれを見て、喜びの声をあげ、自分たちが、地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのですと、なっています。

 旧約聖書のイスラエルの人々、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセは自分たちの土地を持つことができませんでした。そのような意味では、よそ者であり、仮住まいの者そのものでした。イスラエルの人々の歩みを見ていきますと、神が与えてくださった土地はありますが、ずっと安住の地を得ることは困難なことであり、よそ者、仮住まいの者そのものでした。

 私たちはいったいどうでしょうか。ここにいる私たちは、この土地で生まれ、育ち、すっと生活している者もいるでしょう。また、いろいろな土地を渡り歩いている者もいるでしょう。1人1人、いろいろな歩みがあります。でも、生活している場所がずっと一緒だったとしても、違っている場合も、この地上の生活は限られています。ずっと、ここにいることはできません。死がやってくるからです。そのような意味では、私たちのこの地上での歩みは、限られていて、よそ者であり、仮住まいの者ということができると思います。私たちすべてが、よそ者であり、仮住まいの者なのです。

 でも、ヘブライ書がいっていることは「彼らが探している故郷は、出て来た土地のことではなく、更にまさった故郷、天の故郷を熱望していた」と書いています。信仰を持って生きた人々は、この天の故郷を熱望して死んでいったのです。「望んでいる事柄」や「見えない事実」とは、この天の故郷を指します。この「天の故郷」というのは、旧約聖書の信仰者だけではなく、私たち自身も、行くべき先にあるものです。私たちがこの地上に生きて、そして死んでいきます。死んだ後に、私たちが行くべき先にあるのが「天の故郷」です。では、「天の故郷」とは、どのようなところなのでしょうか。どうしたら、行くことができるようになるのでしょうか。いくつかの聖書の箇所を見ていきたいと思います。

ヨハネ3:16~17

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

 ヨハネが語るように、イエス・キリストを信じる者が救われて、天の故郷に行くことができるようになるのです。そのために、イエス・キリストは、この世に来られて、私たちの罪のために十字架にかかってくださり、死んで墓に葬られ、3日目によみがえってくださったのです。このイエス様を信じることによって、私たちは、神の子として、天の故郷に入ることが許されるようになるのです。

ヨハネの黙示録21:1~4

わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

 神は、彼らのために都を準備されていたからですとヘブライ書は書いていますが、まさに、神が用意してくださった天の故郷、神の国、または天の国にいくのです。私たちは、神からの命を与えられて、この地上での生活をしています。この地上での生活は、いつまで続くものではありません。死がやって来て、私たちは、いつかは死ぬことによって、この地上の歩みを終える時がやってきます。やがて、イエス・キリストへの信仰によって、救われた者となって、この地上の世界が終る時がやってきます。その時に、イエス・キリストは再び、この世界にやって来て、神が用意してくださった天の故郷である神の国、または天の国に入っていくのです。天の故郷で、神と共に永遠に生きるのです。この時に、永遠の命を与えられます。

 先に天に召された方々も、この天の故郷を熱望して死んでいきました。私たちも、この天の故郷を熱望しながら死んでいくのでしょう。でも、来るべき時に、神は、天の故郷である神の国、または天の国を持って、私たちを招いていてくださいます。私たちは、信仰の先輩たちと共に、この神が用意してくださる天の故郷を熱望しながら、残された地上の歩みを、信仰と希望を持って歩んでいきましょう。

祈り 神よ、聖徒の日(永眠者記念日)の礼拝を守ることができましたことを心から感謝します。私たちは、ここにある信仰の先輩たちと共に、あなたが用意してくださる永遠の命と、天の故郷である神の国(天の国)を熱望しながら、歩んで行くことができるように、守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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