10月16日の礼拝などの予定です。

礼拝

10月16日の礼拝などの案内です。午後には、講演会も予定しています。

礼拝説教        マタイ26:47~56「十字架への道」     2022.10.16

 今日の礼拝は、瀬戸永泉教会創立134周年の記念の時です。長い歴史の歩みをしてきました。この間にいろいろな苦難の歩みをあったと思います。7月24日には、献堂式を迎えることができました。長く時間をかけて、これからの教会の歩みのことを考えて、教会堂の増改築工事の計画を話し合い、そして実行し、完成を迎えることができました。本当に感謝なことでした。これからも、教会の歩みは続いていきます。この瀬戸の地域に住む方々に、イエス・キリストの福音を伝えていきたいと願っています。

 イエス・キリストの福音、それは、どのような意味でしょうか。今日の聖書の箇所は、このことを私たちに伝えています。今日の聖書の箇所は、イエス様が弟子の一人であるユダに裏切られ、敵である祭司長たちや民の長老たちにおくられた大勢の群衆に逮捕される場面です。イエス様たちは、過越しの祭りを祝うために、エルサレムにやってきました。過越しの食事をして、ゲッセマネで祈りをしました。十字架を前に最後の祈りをしていたのです。その祈りが終って、イエス様は弟子たちにいいました。「時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」と。いよいよその時がやってきたのです。十字架の時です。

 イエス様と弟子たちがいる場所に、12人の弟子の1人であるユダがやってきたのです。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来たのです。イエス様を裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻する人が、その人だ。それを捕まえろ」と前もって合図を決めていたとあります。ユダは、イエス様に近寄り、「先生、こんにちは」といって、接吻します。ユダのイエス様に対する深い信愛の満ちた挨拶のような感じです。ユダは、この時どのような思いの中にあったのでしょうか。知ることはできませんが、自ら進んで、イエス様に近寄り、接吻をして、この人がイエス様だ、捕まえろと合図していたのです。裏切りの接吻ということになるでしょうか。それに対して、イエス様はユダに「友よ」と呼びかけています。イエス様にとって、自分を敵に売ろうとしている裏切る者であっても、「友」なのです。深い愛情を注いでいるのです。すると、人々は進み寄り、イエス様を手にかけて捕らえました。

 イエス様が、ユダの手引きによって、敵に捕えられようとしています。この時の弟子のリーダーであるペトロの行動、そして、イエス様ご自身の行動をみていきたいと思います。ペトロや他の弟子たち、または多くのイスラエルの人々にとって、イスラエルの解放は長い間の念願でした。この時代に、イスラエルの人々は、ローマ帝国の支配下にありました。神の民であると自覚していたイスラエルの人々は、神がメシアを送ってくださり、この苦しみから解放してくださり、自分たちの国イスラエルを再興してくださることを願っていたのです。具体的には、イスラエルの人々が、ローマ帝国から解放されて、自分たちの王国をつくることでした。そのために、ローマ帝国に戦いを挑んで、勝利し、自分たちの国をつくることでした。

 ペトロの願いは、イエス様と一緒に、エルサレムに行き、過越し祭を祝う、その時に、イエス様を中心に、ローマ帝国へ戦いを挑むのだということでした。イエス様が中心に、エルサレムで、剣をあげることでした。かつて、イエス様たちがガリラヤからエルサレムを目指す時に、イエス様が弟子たちに聞きました。「あなたがたはわたしを何者だというか」と。するとペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です。」と答えると、イエス様は喜びました。そして、すぐ後に、最初の受難予告を弟子たちに語ったのです。自分はエルサレムに行って、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活することを。ペトロは、イエス様をわきにお連れして、いさめ始めています。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と。イエス様は振り向いて、ペトロに「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔する者。神のことを思わず、人のことを思っている」といわれました。イエス様の強いことばでした。それでも、ペトロはイエス様のいわれたことを理解することができず、悩みながら、イエス様に従って行きました。

 このイエス様の逮捕の場面では、イエス様と一緒にいた者の1人が手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落としたのです。過越しの食事、最後の晩餐の場面で、ペトロに「はっきりといっておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないというだろう」といわれた時に、ペトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどと決して申しません」と、強くいいました。ペトロは、ここでそのことを実行しています。ここでは名前が書いてありませんが、他の聖書の箇所で、剣を抜いていった人がペトロであると書いています。大勢の敵とイエス様を含めて12人では、戦えば、自分たちが負けることは分かっていたかもしれません。それでも、ペトロは敵に戦いを挑んだのです。イエス様を守るために、自分の命を差し出しています。

 しかし、そのペトロを、イエス様御自身が止められるのです。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は剣で滅びる」といわれるのです。他の聖書の箇所によると、イエス様が敵の1人で片方の耳を切り落とされた人の耳を癒されました。イエス様に止められたペトロは、その後、どうしていいのか分からなかったと思います。このとき、弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまったとあります。ペトロは逃げるしかなかったのでしょう。

 ペトロの願い、イスラエルの人々の願いは、これから40年後に、イスラエルの人々がローマ帝国を相手に戦争をしかけました。ユダヤ戦争といわれるものです。結果はどうなったかといいますと、約10万人が捕虜となり、約110万人が戦死したといわれています。この戦争の結果、イスラエルの人々は約束の地を失い、世界中に散らされることになりました。イエス様がいわれたように「剣を取る者は、剣で滅びる」のです。私たち人間はその道を行こうとしています。

 イエス様ですが、ゲッセマネの祈りの場面を思い出してください。十字架を前にして激しい苦しみを戦っているのが分かります。まだ、この時は、十字架から逃げることができました。十字架の死は、とても苦しいものだからです。その十字架の苦しみから逃げたいと、イエス様は神に祈り、願っているのです。人間としてのイエス様の苦しみが出ています。正直な思いがここには書かれてあります。イエス様は悲しみもだえ始めています。死ぬばかりに悲しいといわれます。そして、神に「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈っています。

 しかし、イエス様が十字架についてくださらなければ、私たちの罪の赦しはないのです。神の救いは実現しないのです。神の御心は、私たちのすべての罪を赦すことでした。そのためには、御子であるイエス様が十字架について死ぬ必要があったのです。イエス様は、このゲッセマネの祈りで、人間としての苦しみと、神の御心を実現することで本当に苦しまれているのです。三度の激しい苦しみの祈りをしています。その祈りが終った後で、イエス様は弟子たちに「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」といわれて、自ら逮捕されに行くのです。十字架から逃げるのではなく。十字架の道を進んで行かれるのです。イエス様はいわれました。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬を向けなさい。敵を愛しなさい。自分を迫害する者のために祈りなさい。」と。

 イエス様は、この後、十字架の道を行かれます。苦しい厳しい道でした。そして、十字架上で死なれ、墓に葬られ、3日目によみがえられたのです。このイエス様の十字架の死と復活によって、私たちの救いが完全に完成しました。イエス様の十字架を信じる者は、罪が赦され、死後、天の国に招き入れられ、永遠の命を与えられるのです。このイエス様の十字架が、イエス様の福音そのものです。私たちは、このイエス様の福音によって、信じて、救われたのです。そして、私たちは、この瀬戸永泉教会を通して、この瀬戸の地域に住み人々に、イエス・キリストの福音を伝えていくのです。この地上の歩みが終るまでです。

祈り 神よ。教会の創立記念日の礼拝を行うことができましたことを、心から感謝します。今から、私たちの信仰の先輩たちが、イエス・キリストの福音を伝えるために、この地に、教会をたててくださいました。この教会の歴史の歩みを守ってくださったことを深く感謝します。教会堂も新しくすることができました。私たちは、この教会を通して、この地に住む多くの人々に、神の福音を伝えていきたいと思っています。これからの教会の歩み、あなたが共にいて、守り支えてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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