12月25日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、247(1)258(2)259(1)27です。本日午後2時~金城学院大学ハンドベルコンサート

礼拝説教   マタイ2:1~12「大事なものをさがす旅」(小椋実央牧師)  2022.12.25

2022年降誕祭主日を迎えました。イエス・キリストがお生まれになった、ただそのことだけを祝いたいと願ってここに集って参りました。とりわけ、私たちの教会にとって今年のクリスマスは特別なものになりました。新しい会堂で、一番最初に迎えるクリスマスです。この会堂の建築を始めた時のこと、建築中の大小様々な事件や、いつ終わるともしれない限りなく続いていた建築にまつわる話し合いのこと、そして多くの人と共に迎えた献堂式のこと。ついこの間のような、その一方でずいぶん昔のような、そんな気がします。

そして、今ここに集っておられるおひとりおひとりにも、この2022年、様々なドラマがあったのではないかと思います。新しく挑戦したこと、勇気を出して切り捨てたこと。家族が増え、または家族を天に送り、様々な変化がありました。人の人生は旅にたとえられることがありますが、この1年も各々があなたにしか味わうことのできない旅を歩んでこられたのだと想像します。息も絶え絶えに歩き続け、時には迷い、時には休んで、しかしどうにかここまで歩んでこられた。私たちにとって幸いなのは、その全ての歩みを主イエスがご存じだということです。喜びも悲しみも、全て主イエスが知っていてくださる。時に適って必要な助けを与え、新しい道を備えてくださる。

ちっとも自分はそんな気はしない、イエスさまが助けてくださるとは到底思えない、そう思われる方もおられるかもしれませんが、しかしイエスさまは必ずあなたと共に歩んでくださいます。あなたの歯がゆい思いも、腹立たしい思いも、全てご存じでいてくださって、あなたの苦しみを共に担ってくださるのです。そして最終的に神さまの前に立たされる時に、この人の罪は全部私が背負います、だからどうぞこの人を赦して神さまの子どもにしてやってください、と言って代わりに罰を受けて、私たちの罪を赦してくださるお方がイエスさまなのです。クリスマスはイエスさまがお生まれになった日、またそのことを感謝して礼拝する日です。今しばらく、ご一緒に時間をさかのぼって、イエスさまの誕生の出来事に耳を傾けてみたいと思います。

救い主イエス・キリストがお生まれになった。そのことをいち早く聞きつけたのは、時の権力者ヘロデ王ではなく、また宗教指導者たちでもなく、外国に住む占星術の学者たちでした。占星術と言うからには星の動きを調べ、今日でいうところの天文学者のようなことをしていたのかもしれません。星を調べるための望遠鏡のような、様々な道具を持っていたに違いありません。そして星の動きから、様々なことを予測していました。占星術、占いと言いますと、今日のラッキーカラーは何色だとか、こういう人と相性がいいだとか、なんだかお気楽な感じがしますが、当時の星占いは国家の将来を左右する、政治的な要素が大変強いものでした。今回の戦争は勝てるかどうか、どちらの国と同盟を結んだらよいか、この政略結婚はうまくいくかどうか。まさに国の指導者が大金を携えて学者たちのところにアドバイスを求めてやってくるのです。本日お読みした箇所の最後のほうで、学者たちが贈り物を送る場面があります。黄金、乳香、没薬。どれ一つとっても大変高価なもので、一般人が所有していることは考えにくい。つまり彼らが非常に裕福で、恵まれた生活をしていたことが伺えます。

自らが望めば、国の権力者さえ意のままに操ることができる、おそらくほしいものはなんでも手に入ったであろう占星術の学者たちが、その全てをなげうって旅に出た、というのは驚くべきことです。今日の私たちにとって、旅行は贅沢な部類に入るほうではないかと思います。日常生活から離れ、友人や家族と、あるいは1人で特別な時間を過ごす。何もプランを立てない気ままな旅もありますが、多くの方はホテルなり、飛行機なりを予約して出かけるのではないかと思います。しかし2000年前の旅はそうではありません。乗り物といってもせいぜいろばからくだ、いつも快適なホテルに泊まれるとは限りません。病院もないでしょうし、それどころか食糧にありつけるかどうかも分かりません。少し大げさな言い方をすると、生きて帰れるかどうかも分からないのです。病気ならまだしも、強盗や獣に襲われることだってあります。しかも行先がはっきりと分からない旅なのです。何かよく分からない、星を通して救い主の誕生を示されたのだけれども、本当に生まれたかどうか、どこで生まれたかどうかも分からない。けれども学者たちはつき動かされるように旅立って行くのです。

さきほど生きて帰れるかどうかも分からない、と申し上げましたが、さらに踏み込んだ言い方をすると、学者たちは死に場所を求めて旅に出たのかもしれません。この旅で命を落とすことになってもいい、それぐらいの覚悟ででかけたのではないでしょうか。占星術の学者たちはたくさんの富を築き、権力者たちから頼りにされて、おそらく手に入れたいと願って手に入らないものはほとんどなかった。しかし肝心な自分たちのことは何一つ分からない。自分たちがいつ死ぬのか、なんのために生きているのか、肝心なことがよく分からない。国のことや政治のことはいくらでも占うことができるのに、自分というたった1人の人間のことが分からない。そんなもやもやとした思いを抱いているところに、不思議な星があらわれた。自分たちのこれまでの知識や経験ではとても太刀打ちできない不思議な光です。この星にかけてみたい、自分たちを超える何かすごいものがあるのかもしれない、元々探求心のある彼らのことです。いてもたってもいられなくなった。1節には東の方からエルサレムに来た、とあります。東というのはおそらくかつてユダヤを支配したバビロニアやペルシアのある地域です。つまり、かつて自分たちの先祖が戦いに勝ち、蹂躙して、支配下におさめていた弱小の地域、そこには大したものが何もないと思われる地域から不思議な光が輝いている。そのこともまた研究熱心な彼らの心を突き動かしたのではないかと思います。

占星術の学者たちは人生をかけて、命をかけて、長い旅路を歩み始めます。その旅の苦労は何一つ記されてはいませんが、唯一、間違えてエルサレムのヘロデ王を訪ねてしまった、というエピソードが記されています。常識的に考えて、王さまなんだから神殿にいるだろう、と思うのは当然のことかもしれません。しかし学者たちが求める王は、きらびやかな神殿でお生まれになったのではありませんでした。ベツレヘムの、別のルカ福音書によれば宿屋にも泊まることもできずに家畜が寝泊まりするような、おそらく家畜小屋でお生まれになったのだ、ということが記されています。

占星術の学者たちにとって、この旅の一番の頂点は、幼子がいる場所を探し当てたまさにその時でした。(9節、10節)この星はもしや何かを伝えているのかもしれない、と心をかきたてられたあの同じ星が、今また同じようにまたたいている。この命がけの旅が、決して間違いではなかったのだよ、無駄ではなかったのだよ、と星が語りかけているかのようにも思えます。学者たちは手をとりあって喜び、その勢いでどたばたと幼子がいるところにおしかけたのではないでしょうか。黄金、乳香、没薬という一般人にはとうてい手の届かないもの。乳香と没薬は特別な木から作るのだそうですけれども、とてもよい香りがして、今でいうと薬のような働きがあるのだそうです。そんな高価なものを押し付けられて、マリアとヨセフは嬉しいような少し困ってしまうような、そんな感情を持て余していたのではないだろうか、とも思います。そして学者たちはゆっくりと滞在するのでもなく、嵐のように去っていってしまうのです。学者たちにとってユダヤで生まれた王をみつける、というのが旅の最大の目的でしたから、マリアやヨセフと親交を深めることにはあまり関心がなかったのかもしれません。あるいは「ヘロデのところへ帰るな」というお告げを聞いたので、あたふたと帰っていったのかもしれません。聖書には何気なく「別の道を通って帰って自分たちの国へ帰って行った。」とありますが、今日のように何種類もルートがあるはずがないのです。まるで反対方向に行くように見せかけたり、違う国に潜伏したり、ヘロデの兵士たちに追われながらほうほうのていで自分たちの国にたどりついたことでしょう。この占星術の学者たちの記述があるということは、おそらく最低でも1人は生き残って、無事に帰り着いた、ということが分かります。

そして私たちもそうではありますが、占星術の学者たちは自分たちの旅の顛末を面白おかしく語って聞かせたことでしょう。イエスさまを探す旅がどれほど大変で、どんな失敗をしたかということを。ヘロデ王のところに行ってしまったのは最大の間違いではあったけれども、しかしそこでベツレヘムというヒントを得て、ようやく幼子のところにたどりついたこと。そしてあの手この手で追っ手をかわして、ヘロデ王から逃げ切ったこと。占星術の学者たちが命をかけて、しかし時には面白おかしく、イエス・キリストという救い主を見つける旅であったことを、私たちは聖書からうかがい知ることができます。そして願わくば、私たちの生涯の旅路も、なるべく危険な目にはあいたくはあありませんが、イエス・キリストと出会う旅路でありたいと願うものであります。

幸いなことに、私たちは学者たちのように危険な目にもあわず、また高価の贈り物も持たずに、イエスさまと出会うことができます。私たちが命をかけてイエスさまを探し求めなくとも、イエスさまの生涯そのものが、私たちを探し求める旅路だからです。2000年前、イエスさまが天を離れてこの罪深き世にお生まれくださったのは、ほんの気まぐれでも偶然でもありません。目的はただ一つ、罪多き私たちを探してその罪を赦し、神の子としてくださるために、イエスさまは壮大な旅を初めてくださったのです。

イエスさまは様々な方法で私たちと出会ってくださいます。聖書を通して、礼拝を通して、隣人を通して、イエスさまは繰り返し語りかけてくださいます。

あなたの罪は赦される。あなたは罪人のままでいてはいけない。あなたの罪は私が背負うから、安心してわたしのことを信じなさい。あなたを神さまの子どもにするために、わたしは十字架にかかることさえいとわないのだ、と。

2000年まえ、イエスさまは大事なものをさがす旅をお始めになりました。イエスさまが天にのぼられた後も聖霊を送り、教会にたくされて、罪人を探し出して救うというイエスさまの旅路は今日もまた続いています。2022年のクリスマスを迎えています。何よりも大切なあなたという人を見つけるために、そしてあなたの罪を赦すために、御子イエス・キリストはお生まれになりました。このクリスマスの恵みからもれていい人は、この地上に一人もいないのです

<祈り>御在天の父なる神さま。2022年の私たちの地上の歩みに、クリスマスの喜びをお与えくださり、ありがとうございます。もう一度、あなたがお生まれになった意味を教えてください。もう一度、あなたに出会わせてください。そして、喜んであなたと共に生きる私たちにつくりかえてください。

イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

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