祈祷会 申命記7:1~15「神の宝の民としてのイスラエル」 2023.2.1
今日の聖書の箇所には、イスラエルの人々が神の民として選ばれた理由が書かれてあります。神は、天地を創造されました。そして、創造の最後に、私たち人間を造られたのです。アダムとエバから始まり、多くの人々の歩みがありました。そして、ノアの子どもたちから、いろいろな民族が生まれました。モーセの時代にも、多くの民族がいました。その多くの民族の中で、神はイスラエルの人々を神の民として、特別に選ばれるのです。その理由は、どこにあるのでしょうか。そして、神の御心はいったいどこにあるのでしょうか。
・7:1~5、7つの民を滅ぼせ。
神はモーセを通して、約束の地に入るイスラエルの人々に語っています。約束の地には7つの民が住んでいる。その民は、イスラエルの人々よりも数と力でまさっています。その7つの民とは、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒッビ人、エブス人です。イスラエルの人々は、この7つの民を追い出し、滅ぼし尽くさなければならないことを命じています。そこには偶像礼拝があるからです。イスラエルの人々はその7つの民と協定を結び、婚姻関係を持ってもならないのです。そのようなことをすれば、イスラエルの人々自身が偶像礼拝をしてしまうからです。
・7:6~15、神の宝の民
神は、モーセを通して、イスラエルの人々に語ります。あなたは、神の聖なる民であると。神は地上にいるすべての民の中から、イスラエルの人々を選び、神の宝の民としてくださったのです。神が心を引かれて、イスラエルの人々を選ばれたのは、数が多かったからではなく、優れていたからでもなく、神に忠実に従ったからでもなく、イスラエルの人々は、他の民よりも貧弱だったからです。数が少なく、そして罪深いから、選ばれたのです。このことが神の選びとしての御心です。イスラエルの人々がエジプトに行った時には少ない数でした。出エジプトの時にも多くの罪を犯してきました。神の民としてシナイで契約を結ばれた時には、神を信じるどころか、エジプトの金の子牛の像を造り、拝んでいました。約束の地を目に前にして、先住民が強いから、入って行くことは嫌だといい、その他でも多くの罪を犯してきました。それだから、神はイスラエルの人々を愛し、神の民としてくださったのです。
神はその愛のゆえに、エジプトで苦しんでいた時に、大いなる力を持って、エジプト、奴隷の家から救い出してくださいました。ここから、神はモーセを通して、イスラエルの人々に、神の教えを守るように繰り返しいいます。イスラエルの人々が約束の地に入って住む時に、神が与えた戒めと法を守り、行うことが求められています。守ることによって、神からの報いを受けて、平和と幸福に生きることができるのです。神からの報いとは、人々の中で子どもたちが与えられること、家畜に多くの子が生まれることです。あらゆる病気からも守ってくれるといいます。逆に、守らなければ、それと反対のことが起ると警告しています。
神の選びと、神のイスラエルの人々に対する命令は矛盾しているように思います。繰り返しになりますが、神がイスラエルの人々を、神の民として選ばれた理由は、数が少なく、罪を犯し続ける弱い存在だったからです。もう一方で、約束の地に入るイスラエルの人々に、神の教えを守るように命じています。これが人間の現実なのでしょう。神の御心としては、イスラエルの人々に、神の教えを守ることによって、幸せと平和に生きて欲しいという願いがあります。しかし、一方では、人間の弱さを、神は知っていました。イスラエルの人々が、神の教えを守り実行することができないということです。本来なら神から見捨てられて仕方がないはずです。それが、神はその愛のゆえに見捨てることはなさらないのです。
新約聖書には次のような言葉があります。パウロがコリントへの教会にあてた手紙です。当時、コリントの教会は多くの人々が集まっていました。教会の中にいくつかのグループができていて争っていたのです。
1コリント1:26~29
兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
パウロは、ここでコリントの教会の人々に、教会に導かれた時に、あなたがたがいったい、どのような状況であったのかを思い出すようにいいます。この世にあって、無学な者、無力な者、無に等しい者、身分の卑しい者、見下げられた者であったといいます。それは、だれ一人、神の前に誇ることができないようにするためだったといいます。人間の視点で考えてはいけないというのです。
この神の視点といいますか、申命記とコリント書を読んで、神の御心を知ることができます。私たちが神と出会うことができたのは、神の愛であり、私たち自身は、とても弱く罪人であるということです。この神の御心を知り、神を信じ、信仰生活を続けていきたいと願うのです。
祈り 神よ。聖書を学ぶことができたことを感謝します。神の選びというのか、神の目線といいますか、私たちをどのように導いているのかを知ることができました。私たちは、神の目から見て、どのような存在であるかを忘れることがありませんように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。
皆様の祈り「 」アーメン。
共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)
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