7月18日の礼拝の内容です。

woman in white long sleeve shirt sitting beside a baby playing with the toy 礼拝
Photo by Meruyert Gonullu on Pexels.com

讃美歌は444(1)518(1)です。7/25の午後3時~教会学校・夏の集いを行います。

礼拝説教      マタイ18:1~5「天国でいちばん偉い者」    2021.7.18

 新しい1週間が始まりました。1週間の初めの日曜日に神への礼拝を守ることができるますことを心から感謝したいと思います。この1週間も喜びと感謝に満ちた歩みとなりますようと祈ります。

 今日の説教題を「天国でいちばん偉い者」としました。そうすると天国でいちばん偉い者はこのような者であるということになりますが、イエス様はマタイ18:4で「自分を低くしてこの子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と言っていますので、自分を低くする者が天の国でいちばん偉い者となります。この点に絞って考えていきたいと思います。

今日の説教のキーワードは「心を入れ替えて子どものようになる」ということです。このマタイによる福音書の18章は、イエス様を信じる者が、人と人の交わりをいかに考え行動することが書かれてあります。イエス様一行はカファルナウムにやってきました。ペトロの家で、神殿税を納めることについての内容がありました。その後で、イエス様の弟子たちが、イエス様のところに来て「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と聞いているところから始まっています。

 ここでは弟子たちから、イエス様に質問されています。新約聖書の最初には4つの福音書があります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネです。マタイ、マルコ、ルカは共観福音書と言って、内容がよく似ています。私たちは今、マタイを読んでいますが、マルコ、ルカにも同じ内容が書かれてあります。これを平行記事といっています。マルコ9:33~34では、「一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」と尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いのかと議論し合っていたからである」とありますように、イエス様から弟子たちへ質問しています。またルカ9:46~47では、「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いのかという議論が起きた。イエスは彼らの心の内を見抜き」とあるように、マルコと同じく、イエス様から弟子たちへ質問しています。マタイだけは反対になっています。

 弟子たちの議論は、やがて来る天の国において、だれがいちばん偉いのかというものです。「天の国とは何かということになりますが、弟子たちが考える天の国と、イエス様が考える天の国はまったく違うものです。弟子たちが考える天の国は、地上におけるイスラエル王国です。イエス様の時代、イスラエルの人々は自分たちの国と持つことができず、ローマ帝国に支配されていました。弟子たちは、このローマ帝国を破り、新しいイスラエル王国が完成した時に、イエス様は王となり、次の地位に立ち者は弟子たちの中で誰かと議論しているのです。まだローマ帝国を破っていないのに、新しいイスラエル王国はできていないのに、自分たちの中でいちばんの地位につく者はだれかと議論している、まもなく天の国が来ると思っていたのです。イエス様が考える天国は、神が王として支配する国です。イエス様が来たことによって、すでに天の国は来ているのです。

 イエス様の弟子たちの中で、真剣に、地位を巡る争いをしていたのです。新しいイスラエル王国ができる時に、イエス様が新しい王となる。では、次の地位に立つ者は誰かという論争です。非常に人間的なことですが、実際のこととして、聖書は書いています。また次のような内容もあります。

マタイ20:20~21

そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、一人はあなたの左に座れるとおっしゃってください。」

 このようにイエス様に近いとされたヤコブとヨハネが、母と一緒になって、イエス様に願っているのです。また「ほかの十人の者もこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた」となるように、すべての弟子たちが、権力の争いをしていたということができるのです。これが人間の現実でしょう。

 さて、弟子たちがイエス様のところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と聞いた時に、イエス様は、一人の子どもを呼び寄せ、彼らの中に立たせて、「はっきりと言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子どものようになる者がいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」と、言われています。

 まず、心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできないと、イエス様は言われています。まず天の国に入らなければ話になりません。そのためには、心を入れ替えて子どもにようになる必要があります。「心を入れ替えて、子どものようになる」ということは、どのようなことでしょうか。「子どものように」とは、素直な者、謙遜な者ということでしょうか。そうではなく、子どもというのは親から受け入れされる存在であるということです。一方的に愛されている者です。子どもだから価値があるからということではなく、子どもは子どもだから、親に愛され、受け入れられるのです。

 しかし、人間社会の現実問題として、親子問題はそんなに簡単なものではないことはみなさんご存知のことと思います。子どもが親から愛されていな現実がいかに多いかと示されています。でも神は、独り子イエス・キリストを遣わし、その十字架と死によって、私たちの罪を赦し、私たちを子どもとして愛し、受け入れてくださったのです。「子どものようになる」ということは、神としての愛のもとに自分があることを信じて、子どもが親の愛を疑わずに甘えていくように、神によりすがっていくことです。そして、神の子どもになるということ、神が私たちを子どもとしてくださったことを信じるのです。その神への信仰によって、私たちは天の国、神の支配の中で生きる者になるのです。

 「心を入れ替えて」ということは、人生の方向転換を意味しています。この世界の価値基準とは正反対の神の支配がイエス様によってもたらされたのです。イエス様の十字架の出来事とはそのようなものです。神は罪人である私たち一人一人を受け入れてくださいました。

 イエス様は、子どものように弱い、未熟な私たちを受け入れてくださいました。神が、弱い未熟な私たち一人一人を受け入れてくださった。それだからこそ、今度は、私たちも、一人の小さな者を受け入れることが求められているのです。「子どものようになる」ことと、「子どもを受け入れる」ことは結び合っています。それが信仰共同体である教会のあり方です。

 弟子たちが行こうとしている道とイエス様が行こうとしている道が紺本的に違います。この違いの中で、福音書が展開されています。弟子たちが考えている天の国とイエス様が考えている天の国は、まったく違います。やがて、イエス様はエルサレムに行き、十字架におつきになり死なれ、墓に葬られます。そして三日目に復活されます。この間、弟子たちは、イエス様を裏切り、逃げてしまいました。やがて、聖霊がくだり、弟子たちに、イエス様のことが理解でき、天の国も分かっていきます。聖霊は弟子たちに力を与えて、大胆に、イエス様の福音のこと、天の国の到来を語って行きました。その働きによって、教会が立ち、全世界に、福音が伝えられていくようになりました。そして、愛知県瀬戸市にたつ瀬戸永泉教会を通して、神の福音が伝えられていくのです。瀬戸永泉教会に連なる私たち一人一人は、神に愛された者として、神に愛された子どもとして信じ従っていくのです。そして、まだ神の愛を知らない人たちに、神の愛を伝えていく者として立てられています。

祈り 神よ、あなたのみ言葉をありがとうございます。あなたに愛された者として、私たちはここに立っています。神を信じ、イエス様に従っていく者として歩んでいます。弱い私たちですが、神の愛を、大切な人に伝えることができるように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

コメント