2月5日の礼拝の内容です。

礼拝

2月5日の礼拝の内容です。讃美歌は、57(1)394(1)493(1)26です。

マタイ28:1~10「死者の中からの復活」     2023.2.5

 2月に入って最初の日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝したいと思います。神の言葉を受けて、よりよい1週間の歩みをすることができますようにと願います。

 今日の聖書の箇所は、イエス様の復活の場面です。この復活こそが、キリスト教の中心です。この復活によって、私たちに本当の希望が与えられています。振り返ってみて、瀬戸永泉教会に来て、何人かの兄弟姉妹を天に送りました。その一人一人のことを振り返ると悲しいことであり、辛いことでもありました。私以上にご家族の方はその悲しさと辛さを味わっておられると思います。それでも、復活の希望を語ることができる、死は終りではなく、その続きがあるのだと語ることができたことは深い慰めになったと思います。イエス様の復活こそが、私たちの希望でもあります。

 それでは、マタイによる福音書にそって話をしていきたいと思います。イエス様はガリラヤからエルサレムにやって来ました。過越し祭を祝うためでしたが、イエス様の近くには弟子たちや多くの人々、その中には婦人たちがいました。その婦人たちの中にマグダラのマリアともう一人のマリアがいました。この婦人たちは、ずっとイエス様と行動をしてきたのです。十字架の場面や墓に葬られる場面にも一緒にいたことが書かれてあります。もちろん、直接手を出すことはできなくて、遠くから見守るしかありません。どのような思いで、その婦人たちはイエス様の十字架の死と葬りを見ていたのでしょうか。当然、深い悲しみを感じながら見ていたと思います。イエス様が鞭で打たれる場面、重い十字架を担いで、刑場まで運んでいく場面、途中で倒れてしまう場面、十字架につけられて死んでしまう場面、十字架から下ろされて、アリマタヤのヨセフの墓に葬られる場面です。十字架の場面では「遠くから見守っていた」と、墓に葬られる場面では「そこに残り、墓の方を向いて座っていた」と表現されています。婦人たちの心境を感じることができるようです。

 そして、今日の聖書の箇所です。イエス様が十字架につけられたのが、金曜日の午前9時ごろ、亡くなったのが午後3時ごろです。日没は近づいていて、安息日に入ってしまいます。そうすると何もすることができません。婦人たちは、イエス様の葬りの時に、十分な死後の処置をすることができなかったことを見ています。そのために、安息日が終り、日曜日の朝早くに、イエス様の墓に向かうのです。婦人たちとは、マグダラのマリアともう一人のマリアとマタイは書いています。イエス様の墓に行って、死後の処置をするためでした。でも、ここで大きな問題があります。それは、イエス様の墓の入り口には大きな石が転がしてあります。そして、祭司長たちから派遣された番兵たちがいて、イエス様の墓を見張っているのです。どうして、婦人たちが行って、イエス様の墓を開けて、中に入ることができるでしょうか。冷静に考えてみれば不可能のように思います。それでも、そのことを知りながらも、婦人たちは、イエス様の墓に向かうのです。イエス様に対する思いが、このような行動につながっているのです。婦人たちの行動を止めることはできません。

 ここで奇跡が起ります。大きな地震が発生します。すると主の天使が天から降りてきて、石をわきに転がし、その上に座るのです。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かったとあります。墓の入り口を見張っていた番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになったとあります。天使が婦人たちにいいます。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、ここにはおられない。かねていわれていたとおり復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」と。天使は更に「わたしはあなたたちに確かに伝えました。よろしく」といっています。

 天使の言葉を聞いた婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行くのです。婦人たちは、イエス様の墓に向かう時に、深い悲しみの中にありました。どうすることもできなかった悔しさがあったのです。そして、墓について、無事に墓を開けて、イエス様のご遺体に、きれいにすることができるか不安もありました。それが、天使の働きによって、墓の入り口にあった大きな石が転がされ、見張っていた番兵は驚いて逃げてしまいました。墓は開けられ、そこには何も入っていない空虚な墓だけがありました。天使は、婦人たちに、イエス様の復活を告げるのです。そして、弟子たちに、イエス様の復活を告げるようにいうのです。婦人たちは恐れながらも大いに喜んで、弟子たちのところに走っていくのです。

 その先に、イエス様が行く手に立っておられるのです。イエス様は「おはよう」といわれます。それは「シャローム」という言葉です。婦人たちは近寄り、イエス様の足を抱き、その前にひれ伏しています。復活されたイエス様と直接にお会いすることができています。復活のイエス様に初めて会うことができた人は、この婦人たちでした。イエス様の声を聞くことができました。「おはよう」「シャローム」という言葉です。婦人たちは、イエス様に近寄ることができ、足を抱くことができて、その前にひれ伏しています。どれほどの驚き、どれほどの喜びでしょうか。イエス様は婦人たちにいわれます。「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くようにいいなさい。そこでわたしに会うことになる」と。そして、この婦人たちによって、イエス様の復活が、弟子たちに伝えられます。そして、聖書を通して、私たちに伝えられています。

 私たちは、復活されたイエス様に直接にお会いすることはできていません。このイエス様の復活をどのように受け止めるのでしょうか。イエス様の十字架の死と復活はとても大切な内容です。十字架の死のことは受け止めることはできますが、復活はなかなか受け止めることは難しいと思います。人間的な理解を超えているからです。聖書には多くの奇跡が行われています。その奇跡の中で、一番大きなことがこのイエス様の復活です。イエス様の復活をどのように受け止めるか、それが私たちの信仰生活の中で最も大切なことです。人の死に際して、人の葬儀の中で、何を語るかといえば、最終的にこのイエス様の復活であり、私たちの復活です。1人1人の葬儀の時に、私は、イエス様が十字架について死なれたこと、墓に葬られたこと、そして3日目に復活されたことを語ります。やがて、イエス・キリストの信仰にある者は、やがて、復活するのだ。そして天の国において、永遠の命を与えられて、神と共にあることができるのだといいます。神の救いの出来事が起っています。

 その原点が、今日の聖書の箇所にあります。イエス様の墓が開かれて、そこにはイエス様のご遺体はなく、復活されたこと、そして、婦人たちに直接に会われたことです。今日の聖書の箇所を通して、婦人たちがイエス様にお会いしたように、私たちもその場面にいるのです。そして、イエス様が私たちに直接に「シャローム」「おはよう」と声をかけてくださっています。私たちは今、そのイエス様のお声を聞くことができているでしょうか。神への信仰によって、私たちは今、イエス様の招きの御声を聞くことができています。

 時代が代わっても、人が代わっても、この復活の出来事は起っています。私たちは生きています。そして、必ず死を迎える時がやって来ます。死んだ後で、墓に葬られます。すべての人が、この道を行くことになります。しかし、イエス・キリストの信仰によって、その先が起って来ます。墓は閉じられていました。しかし、天使によって、その墓は開けられます。イエス・キリストが墓からよみがえったように、私たちも墓からよみがえるのです。やがて、この世の終りが来た時に、私たちはすべて神のつくってくださる天の国へと招き入れられ、そこで神と交わり、イエス様と交わることができます。そして、イエス様は、私たちに「おはよう」「シャローム」と声をかけてくださるのです。私たちは、イエス様に近寄り、イエス様の足を抱き、その前にひれ伏すのです。イエス様は改めて「ようこそ、わが御国へ」と招きの声をかけてくださるのです。その未来を信じて、私たちはイエス・キリストへの信仰を持って歩んでいきましょう。

祈り 神よ。あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。イエス様の復活のことを信じることができ、未来を信じることができるように導いてください。復活を信じないではなく、信じることができるようにしてください。この聖書の言葉を通して、私たちが本当の信仰と希望と愛を持つことができますように、お願いします。この願いを、愛するイエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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