1月21日の礼拝の内容です。

礼拝

1月21日の礼拝の内容です。讃美歌は、226(1・2)394.444.475.91(1)です。

礼拝説教     使徒7:37~43「金の子牛の物語から学ぶ」    2024.1.21

 1月の第3日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から神に感謝します。この礼拝を通して、私たち1人の1人の1週間の歩みがより豊かなものとなりますように祈ります。

ヨハネ3:16~17

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

 ここには、神の救いのことが書かれてあります。イエス・キリストを送ってくださったことは、その十字架によって、私たちの罪が赦されることになります。神の救いの中心は、イエス・キリストの十字架になります。私たちの信仰生活は、このイエス・キリストの十字架を仰ぐことです。十字架を見上げること、教会の建物のどこかには十字架があります。アクセサリーとして十字架を身に着けることもあります。十字架を見ることは、とても辛いことです。それは、十字架は死刑の道具だからです。イエス・キリストが十字架につけられる、それを想像してみましょう。目の前に、そのイエス様が十字架につけられて苦しんでいる、私たちは直視することができるのでしょうか。でも、直視することが私たちの罪の赦しの意味を本当の意味で知ることになります。

 使徒言行録を読んでいます。使徒言行録は、キリスト教の最初の様子を私たちに知らせてくださっています。イエス・キリストが十字架にかかり死なれ、墓に葬られました。そして3日目によみがえってくださったのです。復活されたイエス様は弟子たちと共に40日間過ごされました。そして、神のいる所に帰って行かれました。それから10日後に、神の元から聖霊がくだって来ました。イエス様の弟子たちの元にです。聖霊を受けた弟子たちは、初めて、イエス・キリストの十字架の救いの意味を知ることができました。そして、外に出て行って、大胆に福音を語っていくのです。また、多くの奇跡も行われていきました。弟子たちが語る福音を聞いて、多くの人々が洗礼を受けて、教会に加わっていきました。教会は大きく発展していくのです。

 その一方で、教会の活動を敵対してみていた人々がいました。それは、イエス様を十字架につけたユダヤ教の指導者たちです。彼らは、イエス様の弟子たちを捕らえて迫害し、活動を止めるように圧力をかけてきました。イエス様の弟子たち、使徒たちですが、その1人のステファノが素晴らしい活動を始めていきました。そのステファノをユダヤ教の指導者たちは捕らえて、最高法院に連れて行き、審問を行うのです。ステファノは、その審問に答えて、神の救いの歴史とユダヤ人の罪を説教という形で語っているのが、使徒の7章です。神の救いの歴史は、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセと続いていきます。

使徒7:37~38

このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。

 今日の聖書の箇所では、神の救いの歴史から、ユダヤ人の罪について語っていくものです。モーセの歩みの中で、イスラエルの人々は長い間、エジプトで奴隷として歩んでいました。そのユダヤ人の苦しみを知った神はモーセを送り、奴隷からの解放、出エジプトを成し遂げていきます。その時に、起った奇跡として過越し祭のこと、葦の海のことが語られています。エジプトを出てから、荒れ野の旅では、水を与え、マナとうずらを与えて、イスラエルの人々を神は養ってくださいました。シナイ山で、神はイスラエルの人々契約を結ばれるのです。神の民としての契約です。神はイスラエルの人々の神となってくださったのです。イスラエルの人々は神の民としてくださったのです。神の民、イスラエルとして、神は十戒を中心に律法を与えてくださいました。また、幕屋や祭司制度もつくってくださったのです。神の民として歩むためです。

使徒7:39~41

けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトをなつかしく思い、アロンに言いました。『わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです。』彼らが若い雄牛の像を造ったのはそのころで、この偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で造ったものをまつって楽しんでいました。

 今日の聖書の背景は、出エジプト記32章です。金の子牛の物語が書かれてあります。神はシナイ山において、モーセを通して十戒を中心とした律法を与えてくだしました。十戒を神は2枚の石の板に書いてくださったのです。この栄光の時に、イスラエルの人々はシナイ山のふもとにいました。モーセがシナイ山の登ったまま、なかなか降りてこないと人々は不安になってきました。そこで、イスラエルの人々はモーセの兄アロンの元に集まって「さあ、私たちに先立って進み神々を造ってください」といいました。

アロンは、人々に身に着けている金をはずさせて、金を集めて、そこから金の子牛の像をつくったのです。イスラエルの人々は、この金の子牛の像を、自分たちを導いてくれる神々として拝み、踊っていきました。

 神は、イスラエルの人々の行為を知り、激しく怒りました。モーセに、イスラエルの人々を滅ぼすとまでいわせたのです。その時に、モーセは神にイスラエルの人々に対する憐れみを求めるのです。神は怒りを抑え、イスラエルの人々を滅ぼすことを止めてくださいました。モーセは、イスラエルの人々の前で、神から与えられた十戒が書かれた2枚の石の板を叩き割ってしまったのです。モーセはイスラエルの人人々にいいました。「あなたがたの中で神を信じる者は、わたしの集まりなさい」といいますとレビ族の人々が集まったのです。モーセはレビ人に「神はいわれる。おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ」命じるのです。レビ人はそれを実行して、3000人が倒れたと書かれています。モーセはレビ人に「あなたがたは自分の子や兄弟に逆らったから、今日から祭司職に任命される」といいます。神の言葉に従ったレビ人は自分たちの兄弟、友、隣人を剣で倒したのです。この金の子牛の子牛の物語には、大きなイスラエルの人々の罪とそれに対する神の裁き、大きな悲しみが書かれてあります。

 ステファノは、イスラエルの人びとの罪を指摘し続けます。いかに、目の前にいるユダヤ教の人々が神に逆らい、罪を犯し続けて来たのかをいい続けます。

使徒7:51~52

かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。

 ステファノは、目の前にいるユダヤ教の指導者たちに、その神への罪をはっきりと指摘してきました。このことを聞いた人々は激しく怒り、歯ぎしりをします。そして、ステファノを石打ちで殺してしまうのです。神は聖書全体を通して、私たちの罪をはっきりと指摘しています。ステファノがあなたがたは神に逆らい続けて来たというように、ユダヤ教の指導者たちと一緒に私たちもいるのです。聖書を読みながら、どこまでそのことを受け止めることができるでしょうか。

 イエス・キリストの十字架は、私たちの十字架です。その十字架をどこまで見ることができるでしょうか。とても困難なことです。でも、あえて、見つめる必要があります。本来ならば、十字架につけられるのはユダヤ教の指導者たち、私たち自身です。その十字架を、イエス・キリストが代わって負ってくださったのです。これが私たちの罪の赦しになっていきます。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。ステファノの説教を通して、ユダヤ人の罪を見てきました。また、自分たちの罪についても考えて来ました。神の子イエス・キリストの十字架、その救いの意味を深く知ることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

コメント