10月23日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、280(1)411(1)471(1)26です。11/6は永眠者記念日の礼拝です。

礼拝説教        マタイ26:57~68「神の子キリスト」   2022.10.23

 新しい1週間を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝したいと思います。神の言葉をいただき、よりよい1週間の歩みをしていきたいと願っています。最初にイザヤ書53:1~5を読ませていただきます。

イザヤ53:1~5

わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから

彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 このイザヤ書53章は、主の僕の歌といわれています。神から送られた僕が、苦しみ、やがては死んでいくものです。この主の僕は、私たちの病、私達の痛みを、私たちに代って負ってくださるお方、神の手にかかって打たれたから苦しんでいる。主の僕は、神によって打たれているのは、私たちの背きのため、私たちの咎のためであった。主の僕が受けた傷によって、私たちに平和が与えられ、いやされたというのです。主の僕は、私たちのすべての罪を背負って、神によって打たれているのです。神が主の僕を打つことによって、死によって、私たちのすべての罪が赦されると、ここでいっています。

 神から送られた主の僕は、いったい誰なのでしょうか。イエス・キリストは、この世に来られました。神の子は、私たちと同じ人間となってくださり、この地上の歩みをしてくださいました。30年の普通の歩みをなさり、人間の味わうすべての苦しみや悩みや悲しみを味わってくださいました。そして、30歳になってから、神の仕事を始められました。そして、最後、エルサレムに行かれるのです。過越の祭を祝うためでした。エルサレムで弟子たちと過越の食事をします。それは、最後の晩餐になりました。ここで、弟子たちの裏切りを語ります。そして、十字架の死を前にしたゲッセマネの祈りがあり、イエス様の逮捕となっていきます。十字架を前にしたゲッセマネの祈りでは、人間としてのイエス様の苦しみがいわれています。十字架の死がいかに厳しいものであるのか、できれば、十字架から逃げたいとまでいっています。人間となられたイエス様の本当の苦しみがここにはいわれています。神との祈りの中で、その十字架の苦しみを語り、すべてを神に委ねる決心がつき、十字架の道を歩まれます。

 ゲッセマネの祈りが終ると、すぐに、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダが敵を大勢連れてきて、イエス様を逮捕しようとします。ユダはイエス様に近づき「先生、こんばんは」といって、接吻します。イエス様は「友よ、しようとしていることをするがよい」といわれます。すると人々は進みより、イエス様を手にかけて捕えました。この時に、イエス様の弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまったのです。祭司長たちや民の長老たちから送られた大勢の人々は、イエス様を捕えると、大祭司のところに連れて行きました。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていました。祭司長たちと最高法院の全員は、イエス様を死刑にするために集まっていたのです。最高法院とはイスラエルの人々の最高決定機関ということができます。イエス様を死刑にするために、ここに最高法院の全員が集まっていました。不利な偽証が次々にありましたが、証拠を得ることはできなかったのです。

 最後に大祭司が立ち上がり、イエス様にいいます。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのだ」と。イエス様は黙り続けていました。更に、大祭司はいいます。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか」と。ここで、イエス様が何も答えていなければ十字架につけることはできなかったのかもしれません。しかし、イエス様はここでいわれます。「それは、あなたの言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗ってくるのを見る」と。イエス様は、大祭司の質問にはっきりと答えています。「わたしは神の子であり、メシアだ」と。イエス様の十字架が決定した瞬間でした。

 そこで、大祭司は服を引き裂きながらいいました。「神を冒涜した。これでもまた証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか」と。人々は「死刑にすべきだ」と答えました。そして、イエス様の顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちました。

 大祭司はイエス様に問いました。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか」と。イエス様は「わたしは神の子、メシアです」とはっきりと答えました。そのことで、イエス様の十字架が決定したのです。大祭司は,イエス様が神の子であり、メシアだとは思っていませんでした。だから、人間が神だといっていることで、神を冒涜したといっています。よく考えてみると、ここで本当に問われているのは、大祭司本人なのです。神の子、メシアであるイエス・キリストに向って、神を冒涜したということは、大祭司本人が神を冒涜したことになります。また、側にいた祭司長たち、長老たち、最高法院の全員が、神を冒涜したことになるのです。彼ら自身が十字架につけられることになるべきでした。しかし、それは神の御心ではありませんでした。

フィリピ2:6~8

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 この聖書の言葉のように、イエス様は、神と等しい者でした。そのイエス様は、私たちと同じ人間となってくださいました。自分を無にしてくださったのです。僕の姿になられました。僕とは奴隷であるということです。人間として歩まれたイエス様は、私たち人間が味わうすべてを経験してくださいました。罪は犯すことはありませんでしたが、すべての苦しみを受けてくださったのです。そして、最後は十字架の死を味わってくださるのです。このイエス・キリストの十字架の死によって、私たちのすべての罪の赦しが完成するのです。イエス様の十字架の死がなければ、私たち人間の罪の救いはありませんでした。

 最初に,イザヤ書53章を読みました。主の僕の歌だといいました。主の僕は誰か、それは、神の子イエス・キリストです。主の僕であるイエス様は、御自身は、神の子としての存在していました。それが、主の僕となって、私たちのところに来てくださり、私たち人間と同じになられました。罪は犯しませんでしたが、私たちの味わうすべての苦難を味わってくださったのです。そして、私たちの犯すすべての罪を、すべて負ってくださり、神からの罰を受けてくださったのです。

 大祭司は、神の子を十字架につけるようにいいました。それは、大きな罪を犯すことになるのです。神を、神の子を冒涜してしまったからです。本来なら決して赦されることのない罪です。その罪は、大祭司だけではありませんでした。ここにいる祭司長たちや民の長老たちもそうなのです。そして、ここにいる私たちも、その中にいるのです。私たちの罪が、イエス様を十字架につけてしまったからです。

 決して、赦されることのない罪を、神は恵みとして、罪を赦し、救いへと導いてくださるのです。大祭司は、イエス様に向かって、「お前は、神の子、メシアか」と聞いていますが、実は、イエス様は十字架の上で、大祭司に向かって、「あなたは、わたしを信じるか」と問うています。その問いは、私たち一人一人も問われているのです。ここにいる私たち一人一人が、十字架についているイエス様から、「あなたはわたしを神の子として、キリストとして信じるか」と。

祈り すべてを知っておられる神よ。あなたの御子イエス・キリストは、十字架についてくださいました。それは、御自身では、神の子としてなんの罪を持っていませんでした。しかし、私たちの罪を贖ってくださるために、罪人と同じになり、神からの裁きとして、十字架についてくださいました。その十字架で裂かれた体、流された血が、私たちの罪の贖いになったのです。イエス様を信じることによって、私たちの罪は赦され、神の子となる恵みを与えてくださいました。深く感謝します。この感謝を、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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