5月23日の礼拝の内容です。

礼拝

この日はペンテコステです。讃美歌は343(1)、349(1)を歌います。

教会では、礼拝堂の解体工事が進んでいます。工事の安全をお祈りください。

礼拝説教       詩編51:12~19「打ち砕かれた心」     2021.5.23

 今日の教会暦は、聖霊降臨日、ペンテコステです。教会の誕生日です。教会にとってとても大切な日です。イエス様の弟子たちのところに神からの聖霊が下りました。弟子たちは神からの力を受けて、イエス・キリストの福音を大胆に語っていったのです。聖霊が下る時の弟子たちはどのような状態だったでしょうか。イエス様が逮捕され、十字架につけられ殺されてしまいました。弟子たちにすれば、自分たちのリーダーを失ってしまったのです。律法学者たちの目が気になり、いつイエスの仲間として逮捕されるかと恐れの中にあり、家の2階の部屋の中に閉じこもっていました。

 神からの聖霊が下る、人が聖霊を受ける時とはどのような心の状態なのでしょうか。そのことを考えながら、今日の聖書の言葉を見ていきます。今日は旧約聖書の詩編51編を読んでいきます。この詩編は、罪を悔い改めた人の心を慰めるために書かれたものです。詩編には自分の罪を認めて後悔する内容がいくつかありますが、51編はその代表的なものです。この詩編はダビデの人生の中で最も暗い、罪に満ちた時期に書かれたものです。ダビデは、自分の心の中にあるどうするとこもできない罪の深さを見て、そこからも救うことのできる神の力と憐みの大きさを見ています。そして、誰でも、どのような罪でもへりくだって神に近づくならば、神が罪を赦し回復させてくださると言う信仰と希望に満ちた内容になっています。

この詩編51編の背景は、「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」と書いています。この内容はサムエル記下11~12章に記されています。人の心と言う者は物事が自分の思う通りになると、すぐに神から離れてしまうのです。ダビデは、イスラエルを統一し、エルサレムを首都としました。宮殿も完成し、主のために神殿を建てる計画まで立てました。隣国の軍事的な脅威も少なくなり、すべてが順調に進んでいっていました。ダビデは、神に頼る必要がなくなっていったのではないかと考えます。自分が神の計画を進める器でしかないことを忘れ、自分の力によって、すべてのことを進めることができると思ったのでしょう。

年が改まり、戦いが始まりました。しかし、ダビデは戦場に行かず、自分の王宮に留まっていました。王宮はエルサレムの町を守る急な丘の上にあり、その丘沿いにある家々を上から一望することができました。ある夕方に、ダビデはベットから起き上がり、王宮の屋上を歩いていると1人の美しい女性が体を洗っていました。ダビデは、彼女の美しさを一目見ると、すぐに家来に情報を集めさせ、ヘト人ウリヤの妻であることが分かりました。ウリヤは兵士であり、この時、戦場で戦っていたのです。ダビデは彼女を王宮に招き、関係を持ち、家に返しました。ダビデは、その後、彼女が妊娠したことを知らされます。ダビデは、このことを何とか隠そうと計画します。ウリヤを戦場から戻し、家に返させようとします。でも、うまくいきませんでした。ダビデは最後の手段として、ウリヤを殺す計画を立てました。そして、「ウリヤを激戦の最前線に送り、彼を残して、他の兵士は退却し、打たれて死ぬようにせよ」と命じました。ウリヤは、最後までイスラエルのために戦い、ダビデの罪のために命を落としました。その後、ダビデは、バト・シェバと結婚しました。

この事件が起こって、預言者ナタンが神によって送られ、ダビデのもとを訪ねました。ナタンはある物語を語り始めるのです。多くの羊を飼っている金持ちと貧しくも一匹の羊しか持っていない人が出てきます。貧しい人は、その一匹の羊を娘のように可愛がり、大切にしていました。ある日、金持ちにお客が来ることになり、もてなすために羊を料理しようとしました。しかし、自分の羊をおしみ、貧しい人の羊を取り上げて、その羊の肉を出しました。ナタンはこの物語を語り終えて、ダビデ王よ、あなたは、この金持ちのしたことをどう思いますかと聞きました。ダビデは、この話を聞いて激しく怒り、そのような物は死刑になるべきだと言いました。それを聞いたナタンは、ダビデ王に対して「あなたがその男です。神はあなたのすべての罪を見ておられ、知っています。」と告げました。

 この時、ダビデは何と答えたでしょうか。ダビデは王の権力を使って、自分の罪を指摘したナタンも殺すことだってできたのです。しかし、そうはしませんでした。ダビデは、「私は神に対して罪を犯しました」と告白をするのです。ダビデは自分の罪を認め、神の前にへりくだり、神に赦しを求めました。神はダビデの罪を赦すと言ってくださいました。しかし、ダビデは自分の犯した罪によって、いろいろな苦しみを負うことになってしまうのです。最初の子は死に、家族間の争いの中に、死ぬまでありました。詩編51編を読んでみましょう。

詩編51:12~19

12神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。

13御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。

14御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください。

15わたしはあなたの道を教えます。あなたに背いている者に、罪人が御もとに立ち帰るように。

16神よ、わたしの救いの神よ、流血の災いからわたしを救い出してください。

恵みの御業をこの舌は喜び歌います。

17主よ、わたしの唇を開いてください。この口はあなたの賛美を歌います。

18もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。

19しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。

 人はどうして、罪を犯してしまうのでしょうか。ここまでして、神に祈るのならば、罪を犯さなければいいのにと思います。しかし、現実問題として、人間は罪を持っています。罪を犯してしまいます。もちろん、罪を犯さないことは大切なのですが、それ以上に、罪を犯した時に、自分の罪とどう向き合うべきかが大切なのでしょう。でも、どうして、ダビデは、自分の罪を認め、神に罪の告白と赦しをすることができたのでしょう。まして、ダビデはイスラエルの王でした。王が自分の罪を認めると言うことは決して簡単なことではないと思います。

 ダビデは王として選ばれる場面が出てきます。神はサムエルに言いました。「人は目に映ることを見るが、主は心のよって見る。」(サムエル記上16:7)神は、ダビデの心を見ていました。ダビデは神への信仰心がありました。それは、罪を犯さないと言うことではなくて、罪を犯しても、罪を認め、神に罪の赦しを求めることができる心を持っていたと言うことでしょう。ダビデはいつもどのような時でも、神に返ることができる心を持っていたのです。

 さて、ペンテコステの出来事に戻ります。イエス様の弟子たちは、「一同が1つになって集まっている」状況でした。そこに聖霊が下ったのです。弟子たちは変えられました。弟子たちは外に出て、イエス・キリストの福音を大胆に語り始めたのです。イエス・キリストの福音は、エルサレムから全世界に広がっていくのです。この日本の地にも、この瀬戸市にも福音が語られ、教会が誕生しました。瀬戸永泉教会に集う私たちが、このペンテコステの日に、聖霊を受ける心を考えてきました。弟子たちのことや、ダビデのことに触れてきました。私たちはどのような時でも、神に心が向くようでありたいと願うのです。神の守りを願います。

祈り 神よ、ペンテコステの礼拝を守ることができましたことを感謝します。私たち1人1人があなたの器として、信仰の歩みをしていくことができるように、守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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