7月27日の礼拝の内容です。

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7月27日の礼拝の内容です。讃美歌は、16.470.505.356.39‣6です。

礼拝説教  エレミヤ1:11~19「あなたが見ているもの」(小椋実央牧師) 2025.7.27

7月の最後の主日を迎えました。いつの頃からか、楽しい夏というのは遠ざかって、夏は命の危険を感じる季節になってしまいました。これもまた、私たち人間が犯した過ちによって引き起こされている地球温暖化のせいなのかもしれませんが、その中にあっても、何よりも健康を維持しながら、少しでもこの夏を楽しみたいと思っています。日本は春夏秋冬、4つの季節がある国。最近では春と秋が短くなってしまっているのかもしれませんが、それでもやはり一年中太陽が照り付ける南国とは違います。季節が変わると木々が紅葉したり、花がつぼみをつけ始めたりして、私たちの目を楽しませてくれます。また、季節ごとに旬の野菜や果物があって、これもまた私たちの胃袋を楽しませてくれます。暑さの中で、息も絶え絶えな日々ですけれども、この日本という四季の美しい国に住むことがゆるされている私たちに、神さまが与えてくださっている夏の楽しみをひとつずつ見つけながら、なんとかこの暑さを乗り切っていきたいと思います。

預言者、エレミヤの物語を読み始めています。時は、南王国滅亡寸前。南王国滅亡が紀元前500年代でして、言ってみればここから500年後ぐらいにイエス・キリストが誕生します。少し乱暴なまとめ方をすると、アブラハムとかモーセが出てくるのは今から4000年とか3000年とか、はるか昔のことですが、それに比べるとエレミヤの時代はかなり新約に近い、と言うことができます。また有名な預言者、エリヤとかイザヤが活躍した時代から、さらに200年ぐらい後の話がエレミヤの時代です。ですからエレミヤ書が旧約聖書だから大昔の人物とは思わずに、イエスさまよりの、かなり新約に近い人物だと覚えていただければと思います。エレミヤ自身の生い立ちについては、1章の冒頭に短く記されています。前回と重複してしまいますが、2節と3節をお読みしたいと思います。「主の言葉が彼に臨んだのは・・・捕囚となるまで続いた。」(2節~3節)ここには3人の王が登場します。ヨシヤ、ヨヤキム、ゼデキヤ。実を言うとヨシヤとヨヤキムの間にもう一人、ヨヤキムとゼデキヤのあとにもう一人、合計5人いなくてはいけないのですが、ここでは省略されています。

しかし5人であっても、3人であっても、エレミヤが預言者として活躍する時代に、一国の王がころころと変わった、ということは、歴史に疎い私であっても、これはただことではない、ということがわかります。国の指導者の在任期間が長ければ長いほどよい、というわけではありませんが、長いなりに弊害もあるのですけれども、あまりにも短い期間にコロコロと変わっていいものではありません。安定しないのです。一つの政策が、たとえ間違いであったとしても、期間が短すぎると責任をもって成し遂げられるということがないのです。エレミヤが預言者として活躍したのは、このような不安定な時代でした。不安定な時代だからこそ、預言者を必要とした、と言ってもいいかもしれません。先ほど、3人ではなくて本当は5人の王様、と申し上げましたが、その一人目、ヨシヤ王の時代にエレミヤは召命を受けました。エレミヤの召命については前回ご一緒にお読みした箇所になりますが、まだ若いエレミヤを神が選び出しました。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎内から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」神がエレミヤを預言者として立てたのは、イスラエルのためだけではなくて、諸国民のためであった。この地上のすべての人に福音を告げ知らせるために、若きエレミヤが生まれるよりも前から神に見いだされ、招かれていたのです。その同じ招きを私たちも受けている、ということをご一緒に読ませていただきました。

本日お読みしたのはその続きの部分です。エレミヤは二つのものを見ています。ひとつはアーモンドの花、もう一つは煮えたぎる鍋です。エレミヤの故郷、アナトトはアーモンドの名産地なのだそうです。1月から2月、ちょうど春のおとずれを告げるように白い花を咲かせます。花びらの形は日本の桜に似ています。日本では春の訪れを待つように桜の開花を楽しみにしますが、それと同じように、イスラエルではアーモンドの花が咲くことによって春の訪れを知るのです。日本では桜にはどことなく縁起がいい印象を持たれていますが、アーモンドも同じようにイスラエルでは良いイメージがあります。その一つの根拠となっているのは、モーセの兄、アロンの杖がアーモンドの杖だった、という物語です。アロンの杖と言いますと、出エジプトの時にファラオと交渉したり10の災いを起こすのですが、その時のアロンの杖のほうが印象が強いかもしれません。アロンが杖を投げると杖が蛇になったり、杖で水を打つと水が真っ赤な血の海に代わってしまって、飲めなくなってしまう。そういう奇跡があります。しかし残念ながら、この時の杖がアーモンドかどうか、という記述は聖書にはありません。

アロンの杖がアーモンドの木だ、ということがはっきりと記されるのは、もっと後、民数記の17章になります。ここでどんなことが起こったかというと、イスラエルの民の中でモーセとアロンに不満が出てきた。そこで12部族の族長全員の杖を臨在の幕屋の中に置いておく。レビ族はアロンが族長ですから、アロンの杖を置いておく。次の日に見に行ってみると、他の11部族の杖は昨日と同じだけれども、アロンの杖からは芽が出て花が咲き、実を結んでいた。それがアーモンドだった。他の11部族の族長たちはアロンの杖を見て、神が選ばれたのはやはりアロンだった、ということをアーモンドの花と実を見て知るのです。これがアーモンドにまつわるお話のひとつです。この出来事からアーモンドの木は神の承認とか、神の選びという良い意味を持つようになります。アロンの話から再びエレミヤの話にもどります。エレミヤがアーモンドの木を見ている時に、神の言葉が聞こえてきました。神の選びという意味を持つ特別な木だから、エレミヤがアーモンドを見ていたのか、それともただ単に春を楽しむつもりでアーモンドを見ていたのか。神に選ばれたエレミヤだから、「神の選び」という特別な意味を持つアーモンドを見ていたのだ、と結論づけてしまいたいところですが、正直なところ、それはどちらでもいいことです。

大事なのは、エレミヤがアロンにゆかりのある、神の選びという意味を持つアーモンドを見ていたことではなく、そこで神からなされたよびかけの言葉をどう聞くのか、どう聞き取るのか、ということが大事なのです。「エレミヤよ、何が見えるか。」わたしは答えた「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」アーモンドの枝のことを、ヘブライ語で「シャーケード」と言うのですが、「シャーケード」とは同時に「見張る者」という意味があります。この時すでにエレミヤの心は預言者として神に選ばれた迷いからはふっきれていて、預言者としていささかの自信をもって答えたのではないかと思います。つまり自分は預言者として、見張る者としてこの世を見張っているのだ、と。預言者として、私は準備万端です、とでも言いたかったのかもしれません。それに対する神の答えは、やや拍子抜けするものでした。「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている。(ショーケード)」シャーケードがショーケードに代わりました。小さな変化ですが、シャーケードがショーケードに代わると、「見張りの者」という意味から「神ご自身が見張っておられる」という意味に代わるのだそうです。

王が次々と交代して不安定な状況の中で、若い時分が預言者として選ばれたことでエレミヤには気負いがあったと思います。自分自身がこの世界を見張る者でなければならない、と。一部始終を見極めて、神の言葉を届けるものとならなければならない、と。しかし神の答えは違いました。神の言葉が成し遂げられるかどうかは、神ご自身が見張っておられる。エレミヤの力を借りなくとも、神の言葉は成し遂げられる、というのです。若き預言者は、ここで小さな失望を味わったかもしれません。神がご自分の言葉を成し遂げてくださるのなら、一体自分がするべきことはなんなのか。主の言葉は再び続きます。「何が見えるか。」わたしは答えた。「煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへ傾いています。」

解説によりますと、北というのはバビロニアをさしていて、彼らがやってきてエルサレムを包囲する、すなわちバビロニアに制圧されてバビロン捕囚のことを語っているのだ、という説明になります。しかしエレミヤが今この言葉を聞いている時点で、バビロニアという言葉は出てきませんし、そもそもこの時点でバビロニアはまだまだ小さな国で、自分たちと同じように大国アッシリアに押さえつけられているのです。そんな小さなバビロニアに滅ぼされると言われたところで、ユダの町の人もエレミヤ自身もちんぷんかんぷんな話です。

しかし、エレミヤにとってもちんぷんかんぷんなこの話を語れ、と神は命じます。17節。あなたは腰に帯を締め、立って彼らに語れ。わたしが命じることをすべて。神さまは時として無理なご命令を私たちに課してきます。ノアが箱舟をつくった時も、アブラハムが神に従って行った時も。ペトロたちが網を捨てて、イエスさまに従って行った時もそうでした。理屈では説明のつかない、そんなことをしたら家庭が破綻して、職を失って、隣人から信頼を失うようなことであっても、神さまのご命令に従わなければならない時があります。恐れおののくエレミヤに対して、神さまは次のように約束されました。「わたしは今日、あなたをこの国全土に向けて・・・主は言われた。」(18~19節)堅固な町、鉄の柱、青銅の城壁。これさえあれば敵が攻め入ってくることがないのです。戦いになっても、攻め落とされることがないのです。国々の平和が守られるのです。しかし、無傷で勝利するのではありません。鉄の柱は剣と槍で傷つけられ、青銅の城壁は何度も崩されるのです。大きな犠牲を払って、しかし私たちは救い出されると約束されるのです。エレミヤには二つの畏れがありました。一つは、バビロニアに滅ぼされるなどという、現時点では誰も信じてくれないようなことを語らなければならないということ。そしてもう一つは、さほど取り柄のないエレミヤ自身を選び、神ご自身の言葉を語らせ、その最後の最後まで共にいてくださるという力強い約束でした。

この後のエレミヤの生涯を見てみますと、捕らえられ、迫害を受け、外国に連れていかれて、そこで命を奪われる。お世辞にも幸せな生涯とは言い難いのですが、しかし神が共にいてくださるという神の約束が破られることはありませんでした。「わたしはわたしの言葉を成し遂げようと見張っている。」という神ご自身の言葉は成し遂げられるのです。神が見ていてくださる中で預言者としての生涯を全うできたことは、この世の基準で言えば不幸であったとしても同時に神と共に歩むことができた幸いな人生だったと言えるのではないかと思うのです。本日の箇所はエレミヤが見た二つの幻について、でした。一つはアーモンドの枝、もう一つは煮えたぎる鍋でした。ある人が解説の中で、二つ目の幻について、「これはエレミヤが食事の準備をしている時に見た幻だ」と説明していました。実施に目の前にぐらぐらと煮え立つ鍋があって、その鍋を見ている時に神の言葉があった、という説明でした。今日、男性が料理をしていても全く違和感はありませんが、果たしてこの時代に男性が自分の食事の準備をするだろうか、というのが私の疑問です。聖書の中に食事の準備をする男性の話がないわけではありません。例えば創世記のエサウとヤコブの物語では、ヤコブが造っていたスープをお腹をすかせたエサウが長子の権利とひきかえにしてスープを飲んでしまう、なんていう話もありました。ですから男性が料理をしないわけではない。

実際にエレミヤが料理をしていたのか、していなかったのか、あとはみなさんの想像におまかせしたいところですが、私が申し上げたいのは、アーモンドにしても煮えたぎる鍋にしても、わりと普通の日常的な事柄の中で神さまとの対話があった、ということです。預言者なのだから、密室で、神と祈っている時にしか神の言葉が聞こえない、或いは静かに聖書を読んでいる時にしか神との出会いがないというのではないのです。アーモンドの枝を見るためには少なくとも家の中ではなくて家の外に行かなければなりませんし、そこに育てる人がいて、水と肥料がきちんと与えられていないと木が育つことができない。煮えたぎる鍋にしても、食べる人がいなければ料理はしませんし、作る人と食べる人がいるからこそ料理がなされていて、平和であってもそうでなくても、人々の営みがあるからこそそこで料理がなされている。アーモンドにしても煮えたぎる鍋にしても、日常の何気ない一場面で神さまはエレミヤに語りかけてくださるのです。特別な場所ではない。私たちが暮らし、時々でかけて、人と語らい、時にはぶつかりあって、笑いもし、涙もするこの場所で、神さまは語りかけてくださる。もっと本日の箇所に引き寄せて言うならば私たちが見ている日常的なものの中に、神さまは私たちが語るべき言葉を示し、進むべき道を示しておられる。

だとするならば、私たちは物事をぼんやりと目に映しているだけではなくて、目に見えるものからも神さまの言葉を聞き取ることができる。耳から神さまの言葉を聞くだけではなくて、目からも神さまの救いを知り、神さまの愛を知ることができるのです。7月が終わり、8月がやってきます。命を焼かれてしまいそうなこの暑さの中にあっても、神さまが私たちに何を見せてくださっているのか、しっかりと目を開いて見届けたいと思います。そして、この暑さの中で見るものすべてから神さまの言葉を聞き取って、語るべき言葉を訪ね求めたい。それは私が語りたい言葉ではなくて、神が語る言葉、神が伝えたいと願っている言葉を語りたいと思うからです。「あなたは腰に帯を締め、立って、彼らに語れ。わたしが命じることをすべて。」

<祈り>ご在天の父なる神さま。暑さの中、健康と時をゆるされて、あなたのみ言葉を聞くために、そしてあなたのみわざを見せていただくためにこの場所に集うことがゆるされました。今、私たちの目を開かせて、見るべきものを見、語るべきものを語らせてください。そして一匹の迷える羊を探し求めるイエスさまの愛に私たちが生き抜くことができますように。イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

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