6月11日の礼拝の内容です。

礼拝

6月11日の礼拝の内容です。讃美歌は、60.280.361.403.24です。

礼拝説教      使徒2:25~36「主イエスの復活を信じる」    2023.6.11

 1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から神に感謝します。この神への礼拝によって、私たち1人1人がよりよい1週間の歩みをすることができますようにと祈ります。

 私たちは神への礼拝を行っています。どうしてなのでしょうか。日曜日に、教会に集まり、またはオンラインで礼拝をするのでしょうか。そもそも神を礼拝するということで、私たちは何を願っているのでしょうか。これは私個人の思いですが、私たちの先には死が待っています。それを乗り越えるためにはどうしたらよいのか。その解決のために、神を礼拝しているのです。死の先にある希望といいますか、復活への期待です。その私たち自身の復活への確信を得るために、神を礼拝しているのです。復活への希望が与えられれば、多くの悩みは解決するのだろうと思います。

 私たち自身の復活の希望といいましたが、それを与えてくださるのが、聖霊の働きです。使徒言行録を読んでいますが、ここには聖霊の力強い働きのことが書かれてあります。今日の聖書の箇所は、ペトロの説教の部分です。聖霊降臨日に、教会が誕生しました。そして、このペトロの説教は、教会の歴史の初めての説教ということができます。ペトロたちに聖霊が下って、大きく変っていきました。その変化はとても大きなものです。聖霊の力がいかにすごいのかを示されていきます。エルサレムの大通りに出て行って、ペトロは周りにいるイスラエルの人々に、大胆に、イエス・キリストの十字架について語っています。

 50日前のペトロを振り返ってみたいと思います。ペトロが、イエス様に期待していたのは、イスラエルの国の復興です。当時、イスラエルの人々はローマ帝国の支配下にありました。その支配から抜け出して、イスラエルの国と再建することが願いでした。ペトロもそれを何よりも願っていました。ペトロが、イエス様に期待していたのは、メシアとして力強い王です。ローマの支配から解放し、イスラエルの国家を建てる王です。しかし、イエス様が十字架につけられることによって、ペトロの願いは打ち砕かれました。ペトロは、逮捕されたイエス様の後を追って、大祭司の屋敷にやって来ました。そこで、ペトロは、周りの人々に、お前はイエス様の仲間ではないのかと指摘されて、3度も違うと否定してしまったのです。これは、イエス様が逮捕される前に、ペトロはイエス様自身から直接にいわれていたことでした。

ペトロは、自分自身の弱さに悲しみ、外に出て激しく泣いてしまいました。ペトロは、ガリラヤに悲しみながら、希望を失いながら帰って行きました。そのガリラヤで、復活したイエス様が、ペトロたちにあってくださったのです。そして、再び、イエス様の弟子として立つようにと促されて行き、聖霊降臨日を迎えることになります。聖霊がペトロたちに下って、大きく変っていきました。聖霊を受けるということは、新しいぶどう酒を飲んで酔っているように、周りの人々には見えたようです。ペトロは、自分たちが酔っているように見えるのは、実は、預言者ヨエルのいったことが実現したのだといい始めます。それは、終りの時に、すべての人々に神から聖霊が送られるということでした。聖霊が下ったことで、ペトロはイエス様の福音を大胆に、そしてはっきりと話していきます。

イスラエルの人たちよ、聞いてください。イエス様こそ、神から遣わされたお方です。イエス様はあなたがたの前で多くの奇跡と不思議な業を行って来ました。それをあなた方は見ているはずです。これは、すべて神の御計画の中にあります。神は、イエス様をあなたがたに引き渡されました。そして、あなた方はローマ人の手を借りながら、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神は、イエス様を復活させてくださいました。イエス様が死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。

そして、ペトロは、イエス様の復活について、ダビデのつくった詩編を引用しています。これは詩編16:8~11です。

詩編16:8~11

わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。

 この当時、イスラエルの人々の中で、ダビデの墓は身近にあったようです。ペトロは、ダビデは預言者だったので、ダビデから生まれる子孫の1人を、その王座に着かせると神がはっきりと誓ってくださったことを知っているといいます。そして、キリストの復活について前もって知り、「彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない」と語りましたといいます。旧約聖書には、復活信仰はないといわれています。それをペトロ自身が再解釈して、聖霊の力を借りてかもしれませんが、復活信仰と結びつけていると考えます。ダビデは、イエス・キリストの復活についても前もって知っていたといっています。旧約聖書と新約聖書を結びつけています。

 ペトロは更にいいます。神はこのイエス様を復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエス様は神の右に上げられ、約束された聖霊を神から受けて、注いでくださいましたといいます。ペトロは、目の前にいるイスラエルの人々に、あなた方は今、このことを聞いているのですといいます。また、ペトロは、ダビデを引用して、ダビデは天に昇りませんでしたが、ダビデ自身、次のようにいっているといいます。「主は、わたしの主にお告げになった。わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」と。そして、36節で、「だから、イスラエルの全家は、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と、強くいっています。

 この36節の言葉はとても大切なものです。私たちが洗礼を受けることの意味をはっきりといっているのです。イスラエルの全家とは、私たち1人1人を示しています。私たち1人1人は、次のことをはっきりと知らなくてはならないのです。それは、あなたがたが十字架につけて殺したイエスと、なっています。確かに、ペトロの目の前にいるイスラエルの人々が、実際に、イエス様を十字架につけて殺してしまったのです。ここにいる私たち1人1人は、イエス様を直接に十字架につけたわけではありません。しかし、そうではないのです。私たち1人1人は、神の前で罪人です。罪人である私たちが、自分の手で、イエス様を十字架につけて殺してしまったのです。私は、イエス様の十字架について関係ないとはいえないのです。私たちの罪が、イエス様を十字架につけて殺してしまったのです。神の子を十字架につけて殺してしまう。何という大きな罪でしょう。イエス様は神の子ですが、三位一体によって、神ご自身です。次のようにいうこともできるでしょう。私たちの罪が神を十字架につけて殺してしまったと。大きな罪を、私たちは犯してしまったのです。

 実際に、あなたの罪がイエス様を十字架につけて殺してしまったといわれても、実感がわかないかもしれません。正直に、自分の罪とイエス様の十字架の死とどのように結ぶつけるのかは大きな課題です。私たちの信仰生活は、この自分の罪と、イエス様の十字架の死をどのように結ぶつけるのかの戦いでもあると思います。その上でも、自分の罪が、イエス様を十字架につけて殺してしまったのです。

 その大きな罪が、私たちの罪の赦しにつながっていくのです。私たちの罪が、イエス様を十字架につけて殺してしまったのですが、神はそのことによって、私たちの罪の赦しを行ってくださったのです。これが神の御計画です。ペトロは、神はイエス様を主とし、またメシアとなさったのですといっています。イエス様は復活してくださいました。聖霊によって、ペトロは受け取ることができ、この場面で、はっきりと神の救いについていっているのです。私たちの罪が、イエス様を十字架につけて殺してしまいました。しかし、神のそのままではおきませんでした。イエス様を復活させてくださいました。やがて、聖霊を与え、私たちの罪が、私たちの罪の赦しになっていくという神の御業を知ることができたのです。イエス様の復活によって、私達にも復活の命が約束されているのです。神に感謝です。

祈り 神よ。あなたをこのように礼拝することができましたことを心から感謝します。聖霊を注がれたペトロの説教によって、神の御計画の意味を知ることができました。私たちの罪が、私たちの罪の赦しになっていく。また、イエス・キリストの復活によって、私達にも復活の信仰が与えられています。感謝しています。この神の導きに感謝して、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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