6月13日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は58(1)452(1)です。礼拝堂の窓枠色のついてのアンケートをお願いします。うす緑かうす茶です。7/4が締切です。投票してください。

礼拝説教        マタイ17:1~13「光輝く主」     2021.6.13

 新しい1週間が始まります。1週間の初めの日曜日に神を礼拝することができることを感謝します。神の言葉を受けて、希望と感謝に満ちた1週間になりますように祈ります。

 今日は、イエス様が自分の十字架をどのように受け止めていたのかを考えていきたいと思っています。神の子であるイエス・キリスト、神であり、人間となられたお方です。十字架の死をどのように受け止めていたのでしょうか。イエス様が十字架につくことは宣教の中心です。

 イエス様が自分の十字架をどう受け止めていたか、それが一番分かるのが、十字架を前にしたゲッセマネの祈りの場面です。マタイ26:36~46に書かれてあります。エルサレムで最後の晩餐があり、弟子たちの裏切りを語り、ゲッセマネに行き、祈るのです。イエス様は、この時に弟子の中で3人、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて行きます。イエス様は悲しみ悶え始められました。そして、3人に言うのです。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と。イエス様にとって十字架はとても辛いものでした。できれば十字架から逃れたいと真剣に思っていました。イエス様がこの世に来られたのは十字架について死ぬためでした。それでも、イエス様ご自身は十字架から逃れたいと考えていたのです。

 イエス様は十字架を前にして、1人でいることに耐え切れず、親しい弟子たちを一緒にいさせたのです。そして、目を覚まして一緒にいてほしいと願っています。急に悲しみ悶え始めます。どれほど、イエス様にとって十字架が苦しいことかを思います。弟子たちに、わたしは死ぬばかりに悲しい。ここから離れず、一緒にいてほしいと願っています。イエス様はうつ伏せになり、祈って言われます。「父よ、できることなら、この十字架をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままになさってください」と。イエス様は十字架を前にして、自分としては十字架から逃げたい、しかし、神の御心は自分が十字架につくこと、自分の思いと、神の思いとの間で激しく戦っているのです。このような祈りが三度なされています。そして、イエス様は十字架の道を選ばれ、進んで行かれます。

 そして、今日の聖書の箇所です。この箇所は、イエス様にとってターニングポイントになっているところです。イエス様はガリラヤからエルサレムに向かって旅を進めて行こうとされています。イエス様は弟子たちに、自分をどう思うかと聞き、初めて、自分の本当の目的を話されたのです。エルサレムで十字架につくことです。それから6日後のことです。イエス様は3人の弟子たち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、高い山に登りました。その山とはヘルモン山ではないかと言われています。標高約3000mあります。ここで初めて、イエス様はご自身の姿をこの3人の弟子たちに見せるのです。イエス様の姿は3人の目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなっています。イエス様の栄光の姿は、ここだけしかでてきません。

 イエス様は、このヘルモン山に何をしに行ったのでしょうか。それは、神に祈るためでした。何を祈るのかと言えば、自分がこれからエルサレムに行こうとしている。エルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活されるためです。イエス様が弟子たちに語ったことを実現するためです。しかし、イエス様ご自身は、実は心の中で深い葛藤の中になりました。自分が十字架につくことが本当に神の御心なのかと言うことです。このイエス様の心の葛藤をどのように受け止めたらいいのでしょうか。イエス様が十字架につくことは本当に大変なこと、深い苦しみの中にあったことを、私たちは知るのです。

 十字架刑は、人間が考えた死刑の方法で最も残酷なものだと言われています。人を殺すために、できるだけ苦しめて、それもできるだけ長く続けようとしているのです。十字架につける前に、裸にして鞭で打ちます。死ぬ直前まで続けられます。そして、フラフラの状態で重い十字架を背負い、刑場まで運ばねばなりません。刑場に着いたら、両手を大きな釘で打たれます。十字架に固定されて、死ぬまでそのままにされるのです。映画「パッション」と言うのがありましたが、イエス様の十字架の場面がよく出ています。見るだけで大変です。

 イエス様が祈っていると、モーセとエリヤが現れて、イエス様と語り合っています。モーセについては今、祈祷会でレビ記を読んでいますが、イスラエルの人々に、神からの教えである律法を示している人です。エジプトで長い間奴隷であったイスラエルの人々を解放し、約束の地に導こうとした指導者でした。モーセを通して神はイスラエルの人々と契約を結ばれたのです。神はイスラエルの神となり、イスラエルの人々は神の民として歩んでいくのです。エリヤは預言者を代表するのです。旧約聖書で預言者が多く登場して来ますが、神の言葉をイスラエルの人々に語る人たちでした。その預言者を代表するのがエリヤであると考えられていました。

 ヘルモン山でイエス様が神に祈り、自分が十字架につくのが、本当に神の御心なのかと問うている時に、モーセとエリヤが登場して、イエス様と話をなさる、それが、神の救いの完成である、旧約の律法と預言があり、十字架となっていくのです。イエス様にとっては、十字架への道への確認が与えられたと言うことになります。更に、神の言葉が続きます。光輝く雲が彼らを覆います。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と言う声が雲の中から響きます。

 イエス様は、自分が十字架につくことが本当に神の御心なのだろうかと問いながら、このヘルモン山にやってきました。そして、イエス様の祈りの中で、モーセ、エリヤ、神が語りかけて、十字架への確信がよりはっきり見えてきたのでしょう。イエス様は山を降りて、エルサレムに向かって歩んでいくのです。十字架を目指して歩んでいくのです。

 このヘルモン山での出来事があって、イエス様ご自身の十字家への悩みはなくなったのでしょうか。不安や苦しみは解消されて、確認になったのでしょうか。そうではありませんでした。それは最初にみたゲッセマネの祈りをみれば、分かります。今日の聖書の中で何が言いたいかと言いますと、イエス様の十字架への思いはとても辛いものであったと言うことです。神の子であるイエス様が、十字架を目指して歩んで行かれますが、本当に辛いことだったのです。苦しいことだったのです。できれば十字架から逃れたいと真剣に考えておられたのです。イエス様は十字架を前にして、自分の思いとしては十字架から逃げたい、神の思いでは、十字架につく、この2つの選択の前に壮絶な戦いをされているのです。そのことをしっかりと私たちは受け止めていきたいと思います。

 そもそもなぜ、イエス様は十字架でこのような悩みを持たなければならないのでしょうか。それは、私たち1人1人のためです。私たちのすべての罪を背負い、十字架の死によって解決するためでした。私たちの罪の赦しを得るためでした。そして、私たちに神からの罪の完全な赦しと永遠の命を与えるためでした。

祈り 神よ、礼拝の時をありがとうございました。神の言葉によって、イエス様の十字架の苦しみがいかに大変だったのかを知ることができました。それが、私たちの罪の赦しと永遠の命のためであったことを改めて確認することができました。深く感謝します。神の守りの中で、この1週間を過すことができますように、導いてください。この祈りをイエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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