6月4日の礼拝の内容です。

礼拝

6月4日の礼拝の内容です。讃美歌は、402.437.452.466.88です。

礼拝説教       使徒2:22~24「死の苦しみからの解放」    2023.6.4

 2023年も6月に入りました。今日は、6月の最初の日曜日です。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝したいと思います。この礼拝によって、私たち1人1人の1週間の歩みが豊かなものとなりますようにと願います。

 使徒言行録を読んでいます。イエス・キリストの十字架の死と復活、そして、イエス様の昇天、聖霊降臨日などがありました。特に、この聖霊降臨によって、イエス様の弟子たちに大きな変化をもたらしました。それは、この聖霊がイエス様の弟子たちに下ったことによって、イエス・キリストの十字架の意味、福音の内容を理解することができるようになったということです。ここに教会が本格的に誕生したのです。イエス様の十字架の死によって、イエス様の弟子たちは、自分たち自身の逮捕されることを恐れて、エルサレムの大きな家の2階の大広間で隠れていました。そこに、聖霊が下り、弟子たちは家から出て、エルサレムの大通りに出て、イエス様の福音を語り始めています。

 今日の聖書の内容は、ペトロの説教の部分です。教会が誕生して、最初の説教ということができます。聖霊が下って、弟子たちは預言状態になりました。その様子を見た人々は驚き、戸惑い、「いったい、これはどういうことなのか」と互いにいっています。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」といって、あざける者もいたのです。ペトロは、自分たちが新しいぶどう酒に酔っているという人々に対して、その理由を、説教を通して説明しているのです。預言者ヨエルの言葉を引用して、終りの時に、神の霊をすべての人に注ぐことが起っているということです。それから、イエス・キリストの十字架の意味を話していきます。

 ペトロは「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレ人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通して、あなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。」と。更にペトロは続けます。「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」と。ここからが本題に入っていきます。「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死の支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」と。

 イエス・キリストの十字架の死が、実は、神ご自身のご計画の中にあったこと、そして、その通りになっていたことをペトロは、イエス様を十字架につけた人々に対して、大胆に語っているのです。人々の目を恐れることなく、聖霊の力によって、大切な神の救いの業を語っています。聖霊の力の大きさを感じます。このように聖霊は、人をまったく違う者に変えることができるのです。

 神は、独り子イエス・キリストを十字架につけて殺してしまうこと、これは神がお定めになった計画であり、あらかじめご存じのうえで、行動されたとペトロはいっています。少し、冷静になって、この部分から離れて、神が独り子イエス様を十字架につけて殺してしまうことを考えてみたいと思います。一般的なこととして、親が自分の子を殺してしまう事件が起っています。その事件の様子を報道などによって知って、私たちは何とひどい親だと考えるでしょう。神が自分の子を十字架で殺してしまうのです。いい方は悪いですが、神は何という親だと考えてしまいます。こんな神を信じていいのかという思いさえなってしまいます。

ヨハネ3:16~17

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

 これは、聖書の中心的なメッセージが書かれてあります。神の救いの意味がはっきりと記されています。神は、イエス様を与えてくださったというのは、十字架で殺してしまうという意味です。このことを私たちは、どのように考えていけばいいのでしょうか。創世記22章には、アブラハムが独り子イサクをささげる場面が書かれてあります。アブラハムにとって、息子イサクは希望そのものでした。この時にアブラハムは高齢になっていて、先が短いことを感じていたのです。自分が死んでも、息子イサクが後をとってくれると信じていたのです。それを神は突然に、アブラハムに命じます。息子イサクを焼き尽くすささげものとしてささげよというのです。不思議なことにアブラハムは、神に反抗することなく、神の命令を冷静に実行していきます。神の命令から、実行するまで3日間の時がありました。アブラハムにとって、どのような時間だったのでしょう。とても辛く悲しい日々だったと私は想像します。そして、3日後、アブラハムはイサクを焼き尽くすささげものとして、ささげようとします。石の祭壇をつくり、その上に薪を並べ、イサクを縛って横にします。手には刃物を持っています。その刃物で、イサクをささげようとする時に、神はストップさせています。神はアブラハムが、自分の命令に従うかどうかを試されたのです。結果的に、イサクの代わりに羊がささげられました。

 私は、このアブラハムの物語を通して、神が、イエス様を十字架につけることの思いをいっているのだと思います。アブラハムの沈黙は、アブラハムの苦しみを表しています。神は、イエス様の十字架の時に沈黙されています。イエス様が十字架の上で叫ばれました。「わたしの神よ。わたしの神よ。どうして、わたしをお見捨てになったのですか」と。そのイエス様の叫びに、神は沈黙されているのです。神の沈黙に深い悲しみがあるのだと思います。

 イエス様の十字架の死が、どうして私たちの罪の赦しになっていくのでしょうか。神はこの世界のすべてを造ってくださいました。そして最後に私たち人間を創造してくださいました。人間の創造は神にとって特別なものでした。それは、人間を、神に似るものとして造ってくださいました。神は人間に自由意志を持った者として造られたのです。その神が与えてくださった自由意志によって、人間は神の反する道を歩み始めていきました。ここに死が入ってきました。罪が入ってきました。罪の赦しは、人間自身の死が必要となっていました。しかし、人が死んでしまえば、それまでで終ってしまいますので、神は違う罪の赦しの方法を考えてくださいました。それが、家畜(牛や羊など)を使って、罪の赦しを得る方法です。人が罪を犯します。そうすると、人は家畜を連れてきます。家畜を神の前でささげます。罪の赦しのためです。旧約聖書には、人間の罪の赦しを、そのように家畜を身代わりにささげることによって、罪の赦しが行われてきました。神への礼拝は、家畜をささげることによる罪の赦しが行われることでした。旧約聖書では、このような家畜による罪の赦しが繰り返し行われて来たのです。それは、不完全なものでした。その完全な罪の赦しとして、神の独り子イエス・キリストの十字架の死ということになるのです。

 イエス・キリストの十字架の死は、完全なすべての人間の罪の贖い、赦しになっていきます。だから、イエス・キリストの十字架の死は、私たち人間の罪の赦しのために必要なことだったのです。イエス・キリストの十字架の死、それは本来ならば、私たち自身が負うべき十字架でした。この十字架の死を知る時に、私たちの罪の重さを感じます。私たちが負うべき十字架を、神の子が代わりに負ってくださったのです。そして神はご計画通りに、イエス様を復活させてくださいました。神から選ばれた民であるイスラエルの人々によって、イエス・キリストは十字架につけられてしまうのです。神の子を十字架につけて殺してしまうという大きな罪を犯したことになります。しかし、神は、それを復活へと、救いへと変えてくださったのです。聖霊が、その神の御計画を、ペトロに示してくださいました。

 イエス・キリストの十字架の死は、私たちの罪からの解放、死の苦しみからの解放につながっています。神の私たちに対する大きな愛は、神ご自身の一番大切な独り子イエス・キリストを十字架につけるということにつながっているのです。今や、私たちは、この神の大きな愛を、感謝して受け止めることが求められています。本当に福音です。グッとニュースです。

祈り 神よ、このようにあなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。福音とは何かと改めて知ることができました。あなたの大きな愛を知りました。あなたの大きな苦しみも知りました。自分たちの罪のことと、神の救いの業のことを、しっかりと受け止めることのできる信仰を与えてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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