2月26日の礼拝の内容です。

clear blue shore 礼拝
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讃美歌は、257(1)520(1)です。教会堂の工事が遅れています。4月24日に竣工式を行います。

礼拝説教   マルコ14:3~9「わたしにできること」(小椋実央牧師)  2022.2.27

2月の最後の主日を迎えました。ついこの間、新しい年を迎えたと思っていましたが、来月には多くの会社や、学校、そしてもちろん教会でも年度の終わり、しめくくりの時期を迎えようとしています。教会の暦では、今週の水曜日から受難節に入ります。いよいよイースターにむけて、心備えをする、足並みを整える時期となりました。イエス・キリストの十字架と復活を目指して、特に今年は会堂建築の完成も同じ時期に迎えることとなりました。新しい会堂を心待ちにしながら、聖書の言葉と共に一日ずつ歩みを進めて参りたいと思います。

本日示された箇所はベタニアで香油を注がれるという題がついています。どなたも1度はお読みになったことがある箇所ではないかと思います。時はイエスさまが十字架におかかりになる2日前のことです。ガリラヤ地方での伝道を終えたイエスさまと弟子たちは、エルサレムへとやってきました。弟子たちと共に過越祭を祝うというのが表向きの理由ですが、十字架にかかるという逃れようもない事実がイエスさまに重たくのしかかっていました。日曜日にろばにのってエルサレムにやってくる。月曜日には神殿から商人を追いだし、火曜日には律法学者たちと議論をする。緊迫した状態が続く中で、この香油を注がれる出来事だけはほっと息をつくような、穏やかな出来事です。曜日としては、水曜日。そしてこの週の金曜日には十字架におかかりになるのです。場所はベタニアのシモンの家です。ベタニアはエルサレムから約3キロ。どうやらイエスさまがエルサレムに来るときには、エルサレムではなくてこのベタニアを宿泊場所としていたようです。特に過越祭の時期、エルサレムに何万人という旅行客が訪れるような時期ですから、エルサレムではなくて少し離れたベタニアに宿をとっていたというのも納得がいきます。ベタニアと言えば、あのラザロやマルタとマリアがいるところです。おそらく知り合いが何人もいたのではないか。重い皮膚病の人シモンもその1人だったのでしょう。久しぶりにイエスさまがエルサレムにやって来ると聞いて、友人知人が集まって食卓を囲んでいたのかもしれません。常識的に考えると、重い皮膚病を癒してもらったシモンという人が、そのお礼としてイエスさまを食事に招いた、ということができるでしょう。しかしあえて「重い皮膚病の人シモン」と記されているところを見ると、重い皮膚病を患った人とイエスさまが共に食事をした、とも受け取ることができます。改めて言うまでもないことかもしれませんが、当時は重い皮膚病を患っている人と食事をすることだけではなく、その人の家に行くこと、重い皮膚病の人が触れたものを触ることすべてが汚れること、律法違反と考えられていました。物を介して、汚れがうつってしまうと考えられていたからです。しかしイエスさまはそんなことはお構いなしに、重い皮膚病の人や、みんなに避けられていた徴税人と語り合い、食事を楽しみ、交わりの時を大切にしました。本日の箇所に登場する重い皮膚病の人シモンが病気を癒される前だったのか、癒された後だったのか、詳しいことは分かりませんが、当時は汚れているとして人々から嫌われて、社会から締め出されている人をイエスさまが訪ね、食事をしておられたと想像するのもまた楽しいことではないかと思うのです。

残念ながら、という言い方が正しいかどうかわかりませんが、今日はこのシモンが話の中心ではありません。重い皮膚病の人シモンは、食事の場という設定を整えただけであとは後ろに引っ込んでしまいます。突然に女性が香油を注ぐという事件が起きて、シモンは目立たなくなってしまうのです。この女性がイエスさまと一緒に食事の席についていたのか、或いは食事の支度をするような立場だったのか、はたまた全く赤の他人が乱入してきたのか、この短い文章を読む限りではわかりません。分かっているのは、その香油があまりにも高価なものだったために、人々の反感を買ったという事実です。何故こんな無駄遣いをするのか、という言葉から分かります。「一体この女は誰なんだ」という言葉が発せられていないことから、まったく見ず知らずの人というわけではなくて、この場にいる人たちがある程度知っている人物だったのかもしれません。不思議なのはこの女性の名前が記されていない、ということです。すぐに姿を消してしまうシモンの名前は記されているのに、この女性の名前は記されていない。「世界中どこでも、この人のしたことは記念として語り伝えられる」というわりには、この女性の情報はとても少ないのです。女性の名前が記されていない可能性として3つ考えられます。1つめは、この女性が全く赤の他人で、ここにいる人たちもイエスさまも全く知らない人であったということ。突然やってきて、香油を注ぐだけ注いだら風のようにいなくなってしまった。しかし人々の言葉からは、「お前は誰だ」「ここで何をしているんだ」というような反応は見られない。高価な香油を注いだことに驚きはするものの、この女性の登場にひどく驚いているという様子は感じられないのです。ですから、どこの誰だか分からない、名前が分からない人、というわけではなさそうです。

聖書に女性の名前が記されていない2番目の理由。これは聖書を読み進めているとよくあることですが、聖書が書かれた時代の人たちが、聖書を読めば「これはあの人のことだ」と説明がなくても分かる人。おそらく教会の中に当の本人がいて、本人からも、他の人からも、繰り返しその出来事を聞かされている。たとえば「タリタ・クム」とイエスさまがおっしゃって、死からよみがえった少女がいます。当時12歳でした。この少女も名前は記されていませんが、当時の人たちはほとんどの人が知っている出来事だったと思います。あぁ、あの人がタリタ・クムと言って起こされた人だな。おそらく聖書が記された時点ではもう12歳の少女ではなく、すっかりおばあさんになっていたことでしょう。

けれども教会のほとんどのメンバーが、あのおばあさんが「タリタ・クム」と言って癒されたことを知っている。だからあえて名前を書かなくても、これはあのおばあさんのことだと当然のように分かっているわけです。これが、聖書にわざわざ名前を記さない2番目の理由です。

本当は名前が分かっているのに、福音書を書いたマルコがあえて名前を書かなかった、というパターンもあります。3番目の理由です。さほど重要とは思われない「シモンの家」とシモンの名前を残しているにもかかわらず、女性の名前は記さなかった。ここにマルコの意図があるのではないか、とも考えられます。その意図というのは、イエスさまの言葉にあります。「世界中のどこでも、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」「この人が」語り伝えられるのではなくて、「この人のしたこと」が語り伝えられるために、イエスさまの思いをくみ取って、マルコがあえて名前を記さなかったのではないか。本当のところはマルコ本人に聞いてみないと分からないことですが、もしマルコが目論んであえて名前を記さなかったのだとしたら、功を奏して、女性のミステリアスな雰囲気を際立たせていると言ってもいいかもしれません。一体この人はどういう人なんだろう。どういう目的でこういうことをしたのだろう。短い文章ではありますが、この女性が読者の関心をひく人物ということは間違いありません。

この女性に一体どのような背景があって、何故このような行動に出たのか。香油を注ぐ、しかもあまりにも高価な香油を惜しみなくイエスさまに注ぐという行動だけが記されていて、この女性がどんなことを考えていたのか、ということは全く分かりません。しかしマルコ福音書の短い説明文から、少しだけこの女性の人柄を垣間見ることができます。3節に記される、「純粋で非常に高価なナルドの香油」という説明がありますが、その「純粋」という言葉は、本来は物ではなく人となりをあらわす言葉なのだそうです。誰かに対して忠実であるとか、信頼に値する人物だとか、その人自身の性格や考え方をあらわしている。マルコ福音書では香油の説明として「純粋な」という言葉を用いていますが、どことなくこの女性をあらわしているような気がしなくもありません。また、石膏の壺を壊してしまうということからも、女性の思いをうかがい知ることができます。当初から全部使い切るつもりでいたのでしょうけれども、仮に余ったとしても、もうこの壺は使い物にはならないのです。この香油を他のことに使う、という意志は全くない。他のことには全く使いたくなくて、イエスさまのためだけに、使い切りたい、という思いがひしひしと感じられる。

この香油を頭に注ぐ、というのも、また大胆なことでした。通常でしたら、一滴や二滴、髪の毛や洋服につけて香りを楽しむ。或いは手や足などに塗ってマッサージをしたり、傷口に塗ったりする。旧約聖書では祭司が任職する時、または王が即位する時に香油を頭に注ぎかけるということをしました。この女性が一体どういうつもりだったのか。自分がイエスさまを祭司や王に仕立て上げるなどという大それたことを考えていたわけではないでしょうから、ただ自分が持っている香油で、最大級にできる良いことをしたかったに違いないのです。

女性の思いがけない贈り物を、イエスさまは喜びました。しかし、王さまのように扱われたから喜ぶのではなく、これが自らの埋葬の準備であるとして喜んで受け止めたのです。人々の話によると、ナルドの香油は300デナリオン以上もするのだそうです。1デナリオンが1日分の賃金ということですから、約1年分の給料と言ってもいいでしょう。食事の席についていた人たちは、イエスさまに香油を注ぐよりも、この香油を売って貧しい人に施したほうが価値がある、と考えました。イエスさまが喜ばれたのは、それほど高価な香油だから、というわけではなく、また貧しい人を施すことより自分を大事にしてくれたことを喜んだわけでもなく、ささげつくす、という女性の行為を喜びました。人々になんと思われようとも、今この時にできる最大級のことをした。女性はこの後すぐイエスさまが十字架にかかることも、自分のしたことが葬りの備えになることも、全く考えずにしたことではありますが、女性の精一杯の行為をイエスさまは最大限に受け入れ、用いてくださった。ささげものというのは、人間の側の思いをはるかに超えて、恵みの出来事に変えられる。ささげるという行為には何かしらの犠牲が伴うものですが、それ以上に豊かに与えられるということを私たちは経験として学んでいますし、そのことを教会の大切なわざとしてこれからも大事にしていきたいと思うのです。

イエスさまは、この女性の突拍子もないささげものを、しかしこれは自分の埋葬の準備だ、と喜んでくれました。それは単に弟子たちが誰もイエスさまの十字架の死と復活を認めようとしない、自分を理解してくれていないのに、この女性だけが自分を理解してくれているから嬉しい、という話ではないと思います。文字通り、女性が埋葬の準備をしてくれたことが嬉しい。自らの葬りの備えが、今日、十字架にかかる2日前にあったことが嬉しい、と喜んでおられるのだと思います。

改めて、イエスさまの埋葬の準備をすることが、何故イエスさまの喜びに値するのか。イエスさまの埋葬の準備をするというのはどういうことなのか。それはイエスさまの死を受け入れる、ということです。イエスさまが死ぬべき方であるということを認める、ということです。イエスさまは不死身の体なのではなく、私たちと全く同じ肉体を持ち、そこには当然痛みがあり、死を経験されるのです。同じく私たちの肉体にも痛みがあり、死すべき体なのです。そして、自分にとって、キリストの死は避けて通ることができない。この方の死が、必要であることを知らなければならない。この方が死ななければ、私は生きることができない。そのはっきりとした確信に立つことが、イエスさまが言われる埋葬の準備なのです。私はあなたに死んでいただかなければ、十字架にかかって死んでくださらなければ、私は生きることができません。私が生きるためには、どうしても十字架の死を避けて通ることはできない。私の命と、イエスさまの十字架の死は切っても切り離すことができない。高価な香油を注ぐという女性の行為をイエスさまは信仰告白として受け止め、そのまっすぐな心を、イエスさまは心から喜ばれたのです。

もう何度も足を運んでいる方もおられると思いますが、礼拝堂に床が貼られて、少しずつ完成に近い形になってきました。先日も改めて中に入らせていただいた時に、これから新しい礼拝堂でどんな礼拝が守られて、どんなみ言葉語られるのかなぁと考えました。建物が変わるから、急に教会が変わるわけでもないし、礼拝堂が新しくなるからと言って、急に説教の内容がグレードアップするわけでもないのですが、新しい会堂を与えられて、これから瀬戸永泉教会がどんなみ言葉を語っていくのかなぁということをここ数日思いめぐらしています。これから建物が完成して、みんなでお祝いをして、おめでたいムードの時に縁起でもないと言われてしまいそうですが、そもそも教会は縁起を担ぐところではないので気にする必要もないことですが、やはり教会が新しくなろうとも、イエスさまの死を語っていかなければならない。イエスさまが死んでくださるがゆえに教会が建ち、イエスさまが死んでくださるがゆえに私たちが生きることができる。この重々しい現実を、しかし当たり前のように日曜日ごとに教会は語り続けなければならないし、思い起こさなければならない。

間もなく、2022年の受難節を迎えようとしています。今年の受難節も間違いなく、教会ではイエスさまの十字架と復活が解き明かされるに違いありません。たとえ会堂が新しく、美しくなろうとも、イエスさまが死んでくださるのでなければ、私たちは生きることができないのだ、ということを私たちは繰り返し心に刻んでいきたいと思います。それが私たちのイエスさまに対する葬りの備えであり、わたしたちにできること、数ある中のうちの、1つのできることだからです。

<祈り>御在天の父なる神さま。イエスさまの十字架を近くに感じながら、み言葉に聞いています。

イエスさまの苦しみと死が、私たちのためであったことをもう一度思い起こさせてください。日頃はまるであなたのことを忘れて、無関係であるかのように生きていますが、どうかこの時、私の命とイエスさまの死と復活とをしっかりと結びつけ、あなたにより頼んで生きることができますように。このお祈りをイエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

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