5月2日の礼拝の内容です。

礼拝

礼拝説教      マタイ16:1~4「天からのしるし」     2021.5.2

 イエス様は、まもなくエルサレムに向かって出発しようとしています。十字架を目指しての旅立ちです。そこに、ファリサイ派とサドカイ派の人々がやって来て、イエス様を試そうとしています。イエス様の働きが書かれてある福音書を読んでいると、イエス様とこのファリサイ派の人々の対決が書かれてあります。その対決がより本格的になっていくのです。

 ここで初めてサドカイ派の人々が出てきます。ファリサイ派とサドカイ派は同じ律法学者になるのですが、まったく違う考え方を持っていました。水と油と言ってもいいと思います。この2つのグループが一緒になって行動することは考えられませんでした。でも、イエス様と対決すると言う視点では同じだったのです。ファリサイ派は、律法を大切にする一般人であり、メシアへの待望があり、復活信仰もあり、反ローマの立場でした。それに対してサドカイ派は、祭司であり、モーセの5書のみを大切にし、メシアの待望はなく、復活信仰もありませんでした。親ローマの立場でした。

 この異なる2つのグループが、イエス様を試すために、わざわざエルサレムからやって来て、天からのしるしを見せてほしいと言います。この天からのしるしですが、聖書全体を読んでいて、さまざまな天からのしるしが起ってきました。有名なのが、出エジプト記の10の災いであり、葦の海の奇跡などです。特に、葦の海の奇跡は、天からのしるしとして、イスラエルの人々にとって、なくてはならないものになっていきました。イスラエルの人々がエジプトから出て、葦の海の近くまでやって来ました。すると、後ろからはエジプト軍が迫り、目の前には葦の海が広がっています。イスラエルの人々は逃げていく場所がなく、うろたえてしまいます。その時に、神は目の前の葦の海を2つに分け、渇いた地を現し、そこを人々が渡っていくことができ、後からエジプト軍が入った時は、海の水が元通りになり、エジプト軍は全滅してしまったと言う奇跡、しるしです。

 イエス様ご自身も多くの奇跡、天からのしるしを行いました。足の不自由な人を歩けるようにしました。目の見えない人の目を見えるようにしました。体の不自由な人を自由に動けるようにし、口の利けない人を話すことができるようにしました。そして、多くの人々を、パンを持って満腹にさせたのでした。そのような流れの中で、ファリサイ派とサドカイ派の人々が、イエス様に天からのしるしを見せてほしいと言うのも分かります。

 彼らの天からのしるしを見せてほしいと言うことで、イエス様が示されたのは、ヨナのしるしだけでした。イエス様は、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と答えられました。そして、イエス様は彼らを後に残して立ち去られたとあります。実は、このイエス様が言われた「ヨナのしるし」と言う天からのしるしはとても大きな内容になっているのです。

 旧約聖書にヨナ書があります。このヨナ書は、旧約聖書の中でも特別な内容が書かれてあると思います。ヨナ書の内容は、イスラエル人のヨナが、アッシリアの都ニネベに行って、神の裁きの言葉を語ると言うものです。イスラエルの人がイスラエルの人々のために神の言葉を語るのではなく、異邦人であるアッシリアの人々のために語っています。そして、ヨナの言葉を聞いたアッシリアの都ニネベの人々は、王からすべての人々まで、神の言葉を聞いて悔い改めていくのです。神は、アッシリアにくだそうとしていた裁きをやめてしまいます。

 私たちはマタイによる福音書を読んでいますが、少し前に、カナンの女性とイエス様とのやり取りをみました。カナンの女性が娘の病気の癒しを必死に求めているのに対して、イエス様は「私は、イスラエルの失われた羊のところしか遣わされていない」と言い、また「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言われたのではありませんか。あのイエス様でも、救いは、イスラエルの人々だけに与えられていると言っています。もちろん限定的な意味で使われているのですが、

 また、アッシリアは、イスラエルの人々にとって、憎い相手と言ってもいいでしょう。それは、ソロモン王が死んで、国は南北に分裂してしまいました。北王国が、このアッシリアによって滅ぼされてしまうのです。ヨナにしてみれば、自分たちの国を滅ぼして憎き敵の国の救いのために、どうして、働くことができるかと言うものです。そのような状況の中で、神はヨナにアッシリアの都ニネベに行き、神の言葉を語れと命じているのです。それもアッシリアの都ニネベの町の人々は、神の言葉を聞いて、悔い改めてしまい、神は彼らの罪を赦し、滅ぼすことをやめてしまいます。ヨナからすれば、神の言葉を受け入れず、神の裁きがあることを望んでいるのです。

ヨナ4:1~3

ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」

 ここでヨナは、アッシリアの人々が悔い改め、罪を赦され、滅びから救われたことを大いに不満を持っています。ここには驚くべき内容が書かれてあります。ヨナは最初、神の言葉を語ることを拒否しました。その拒否の理由が、「わたしには、こうなることが分かっていました。」と言っています。それは、アッシリアの人々が神の言葉を聞いて、罪を悔い改め、神によって赦されると言うことです。さらにヨナは、神について、「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」と告白しています。特に「災いをくだそうとしても思い直される方です。」と言う内容に注目をします。たとえ異邦人でも、神の言葉を聞いて、悔い改めるのならば、神は赦し、裁きをやめられると言うことです。

 祈祷会で、出エジプト記の学びを終えました。この学びで、私が一番印象に残ったのは、神とイスラエルの人々の契約を結ぶ中で、それが再契約だったと言うことです。一度、契約が与えられました。すると、イスラエルの人々は、神ではなく、エジプトの金の子牛の像を造り、拝んでしまったのです。大きな罪を犯してしまいました。でも、神は、イスラエルの人々と契約を、もう一度、結び直してくださっています。出エジプト記では、もちろんイスラエルの人々の救いが書かれてあります。そして、このヨナ書では、異邦人の救いが書かれてあるのです。それも、アッシリアの人々が大きな罪を犯していました。でも、神の言葉を聞いて、悔い改めたことに対して、思い直し、赦してくださり、滅ぼすのをやめているのです。

 もちろん、ヨナが大きな魚に飲み込まれて3日間いたことも大切です。これが、イエス様の十字架の死と復活を意味していることは分かります。イエス様が「ヨナのしるし」と言っているのには、これほど大きな神の救いの業が含まれているのです。イエス様の救いは、イスラエルの人々だけではなく、すべての人々に与えられています。私たち1人1人に、神の救いは与えられています。感謝です。

祈り 神よ。礼拝の時を持つことができ、ありがとうございます。神の言葉を聞き、あなたがどれほど私たちを愛してくださっているのか、イスラエルの人々だけでなく、すべての人々に対する深い思いを持っていることが分かります。どうか、私たち1人1人が、あなたの愛を、イエス様の十字架の愛を、本当に知ることができますように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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