3月21日の礼拝の内容です。

礼拝

3月21日の礼拝の内容を送ります。オンライン配信もします。

「日本キリスト教団瀬戸永泉教会」チャンネル

礼拝説教     マタイ15:21~28「主よ、助けてください」   2021.3.21

 今は、受難節を歩んでいます。イエス様の苦しみを覚えながら過ごすのです。来週は、棕櫚の主日になります。受難週に入ります。そして、イースターを迎えるのです。

 イエス様の活動の中心はガリラヤ地方でした。最終の活動の場所がエルサレムになります。十字架の場所だからです。イエス様はまもなくガリラヤからエルサレムに向けて歩みを始めようとします。その前に、ユダヤ人が住んでいる場所から離れます。それが、今日出てくるティルスとシドンです。地中海沿岸にある町です。イエス様が異邦人の地に行ったのは、たった1回、ここなのです。どうしてかと言いますと、いよいよエルサレムに向けて行くことになります。少し休みたい、弟子たちとだけ過ごす時間が欲しいと思われました。でも、ユダヤ人がいる地域では、その時間を取ることができませんでした。いつも人々が、イエス様のところに行こうとされたからでした。

 ティルスとシドンの地、異邦人の地ではありましたが、イエス様の活動のうわさは広まっていたと考えられます。この地に生まれたカナンの1人の女性が登場して来ます。この女性とイエス様のやり取りが今日の聖書の内容になります。そして、今日の話のポイントは、この女性の思いの強さになります。それは、この女性には娘がおりました。その娘は重い病気で苦しんでいました。長く辛い苦しい日々を過ごしていたのでしょう。その娘の様子を見ながら、この女性は、とても苦しい日々を過ごしていたのだと思います。その苦しみがとても強かったと想像します。誰も、娘の病気を治してくれる人はいない。この苦しみを抱えながら、この女性はずっと歩んでいました。そこに、イエス様がなんとやって来るのです。

 この女性は、すぐにイエス様の元に走っていきます。そして、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しまれています。」と、叫びます。すべての思いを叫びとして、イエス様に向けているのです。しかし、その女性の叫びに対して、イエス様は何もお答えになりません。とても冷たい態度です。それでも、女性はイエス様に対して、助けを求め続けます。しつこく諦めずに叫び続けます。イエス様の無視を受けても、助けを求め続けます。止めることはしません。この様子を見ていた弟子たちは、イエス様に言います。「この女性を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」と。

 イエス様は弟子たちの申し出に「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と答えています。何と、イエス様は、この女性にではなく、弟子たちに答えています。また、女性はイエス様に無視されています。実際に、神の救いはイスラエルの人々から始まっています。イエス様の宣教活動の中心は、イスラエルの人々でした。この異邦人伝道が本格的に始まるのが、使徒言行録のパウロの時からです。その時はまだ来ていないのです。だから、この女性は、重く辛い時をずっと過してきて、イエス様に助けを求めているのに、完全に無視され、救いの対象の外になってしまうのでしょうか。

 この女性を無視続けるイエス様に、この女性は次の行動に出ました。今までは、イエス様の後から着いていて叫んでいました。それをイエス様の前に出て、ひれ伏して助けを求めるのです。「主よ、どうか助けてください」と。ここから、イエス様のこの女性のやり取りが始まります。イエス様、この女性に冷たい態度で出ます。「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになります。

 子どもたちと言うのは、イスラエルの人々のことです。パンは、イエス様の救いの業と言うことになるでしょうか。この女性のこと、つまり、異邦人のことを、小犬と言っておられます。ある聖書の解説書には、当時の犬について、次のように書かれてありました。犬は汚い存在であった。ゴミを荒らすなど、汚れたように受け取られていた。しかし、ここでは、小犬となっている。この小犬は、家で飼われているような可愛い存在として受け止めることができると言うことでした。

 言葉だけで、イエス様とこの女性のやり取りを見ているので、限界はありますが、どのような状況だったのでしょうか。それぞれの態度によっても、受け止め方は変ってくることがあります。イエス様のことですから、温かい対応をされたと思います。この女性は、イエス様に対して、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです。」と、答えています。すごいですね。イエス様の対応に、ユーモアを加えて答えています。

 そこで、イエス様は「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と言われました。イエス様は、この女性のすべてを知っていて、冷たいような態度を取っていましたが、それでも、求め続けることを知っていたのでしょう。この女性は、イエス様の冷たいような対応を受けとめつつ、恵みを受けています。途中で、小犬と言われた段階で、切れて、怒って、イエス様のもとから離れるようなことはありませんでした。4つの福音書の中で、このようにイエス様から褒められる人は少ないと思います。その時に、この女性の娘さんの病気は癒されたのです。

 この女性は、どうして、これほどまでの思いを持って、イエス様に対応することができたのでしょうか。それは、この女性があまりにも厳しい状況下におかれたからだと思います。この女性の娘は、あまりにも厳しい病気にあり、治ることができず、辛く厳しい中にあったのです。この女性は、娘の病気で、何の希望も喜びも見出すことができなかったと思います。たった一度だけ、イエス様と出会って、この人なら、いや、この人しか、娘の病気を治すことができないと直感し、すべてをかけて、イエス様のいやしを求めたのです。

 私たちの信仰生活を考えてみたいと思います。私たちが弱っている時、イエス様の力を求めます。しかし、元気な時は、実は、イエス様から離れているのではないでしょうか。例えばガソリンがなくなった時には、ガソリンスタンドに行くように、満タンの時は必要とせず、空っぽのときだけ、イエス様を求めているのではないでしょうか。どんなときでも、イエス様は私たちと一緒にいてくださるのに、イエス様を求めていないのです。

 それは、自分の力で何とかできると思っているからです。私たちはそれぞれの歩みの中で、目標を持ち、努力してやっていこうとします。それは、ある意味で大切なことです。しかし、それが自分の力でできてしまうと、イエス様の力は必要としないわけです。それが、自分でも気づかないうちに進んでいきます。そして、行き詰ってしまいます。それも大切なことなのでしょう。イエス様の働きと言うのは、私たちの限界を超えたところに働いてくださるのです。自分の理解できる範囲で、イエス様の力を見る時、私たちは、イエス様がしてくださることを見ています。

 しかし、自分では、その状況の中で何もできないと知った時に、イエス様の力は大きく働いてくださるのです。やがて、イエス様はエルサレムに行き、十字架につけられて死んでしまいます。しかし、3日目に復活してくださり、私たちのすべての罪の赦しをしてくださり、私たちに復活と永遠の命を与えてくださいます。

 私たちは、この女性のように、自分の力の限界を知り、イエス様にすべてを委ねることができるよういなりたいと願うのです。

祈り 神よ、イエス様と1人の女性のやり取りを見てきました。あなたは、この女性に答えて、大きな御業をしてくださいました。私たちもあなたを信じて、本当に私たちのすべてをあなたに委ねることができますように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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