讃美歌は371(1)394(2)です。平和聖日の礼拝です。
礼拝説教 マタイ18:6~9「永遠の命にあずかる」 2021.8.1
8月の第1の日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができることを感謝します。この1週間も神のみ言葉を受けて、感謝して歩むことができるように祈ります。この8月第1主日は、日本基督教団の教会暦で、平和聖日となっています。もう76年目を迎えます。8月6日に広島に原爆が投下され、9日に長崎に原爆が投下され、15日に敗戦を迎えました。多くの人々が殺し合い、傷つき、死んでいきました。あの戦争の悲劇から76年が過ぎたことになります。どんなに時が過ぎても、あの時の悲しみを決して忘れていけないのです。
マタイによる福音書を読んでいます。この18章では、イエス様は教会における人間関係について語っています。教会において、あるべきお互いの関係はどうあるべきでしょうか。私たち自身が教会です。教会はキリストの体です。イエス様は私たちを通して働かれます。信仰者は1人で生きることはできず、他の信仰者を必要としています。イエス様は私たちが、他の信仰者に対して、とるべき態度を教えられます。18:1~14では、へりくだることの大切さが言われています。自分を小さい者としてみなし、他の信仰者をイエス様にあって受け入れていきます。18:15~20では、責めることの大切さが言われています。自分に罪を犯した兄弟姉妹を、愛を持って忠告していきます。18:21~35では、ゆるすことの大切さが言われています。自分に罪を犯した兄弟姉妹を心からゆるしていきます。
この時はイエス様の弟子たちの中で、人間関係はどうあるべきかが言われています。イエス様一行はまもなくエルサレムに向かって旅立とうとしています。その中で、イエス様の弟子たちは、自分たちの中で誰が一番偉いかと議論していたのです。18:1~4の内容です。これは、弟子たちは、イエス様を中心にローマ帝国に戦いを始める、そして、イスラエルが勝利し、王国をつくる。その時のイエス様が王として立たれる。では、イエス様の地位に立つ者は、弟子たちの中で誰かということでした。イエス様は、一人の子どもを呼び寄せて、弟子たちの中に立たせて、はっきりと言います。「はっきりと言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければならない。自分を低くして、子どものようになることの大切さを語り、このような子どもを受け入れることは、わたしを受け入れるのだと」と。
弟子たちは、自分たちの中で、一番すぐれた者は誰かと議論していました。それは、私たちの現実の社会と同じです。私たちは、この現実社会の中で、人より優れた者になるように目指しています。イエス様は、弟子たちの中では、教会の交わりの中では、そうであってはならないと強く語るのです。子どものようにへりくだる者となることの大切さを語ります。そして、小さい者を受け入れ、交わりの中に加えて歩むことを求めています。
そして、今日の聖書の箇所になります。ここで、イエス様は弟子たちに、私たちにとても厳しいことを語っています。「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は大きな石臼を首にかけられて、深い海に沈められる方がましである」(18:6)と、イエス様は言います。つまずくということは、イエス様の信仰から離れるということです。教会から離れていくということ、弟子たちのグループから抜けるということです。イエス様はさらに、「世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。」(18:7)と語り、私たちが住む現実の社会では、つまずきは避けることができないといいます。この社会では、イエス・キリストの信仰を持ちながら、つまずいて、信仰から離れてしまうことが多いことを語っています。特に、「つまずきをもたらす者は不幸である」(18:7)と、イエス様は、弟子たちに、私たちに警告しています。
教会は、キリストの体だと言われています。でも実際は、人間の集まりです。人と人とが集まれば、いろいろな事が起こります。それは避けることができないことです。私たちの教会も長い歴史を刻んで歩んできました。この長い歴史の歩みの中で、いろいろなことが起って来たはずです。いろいろなつまずきが起り、多くの信仰者が去っていたのかもしれません。これらイエス様が語られることを、受け止めることのできる教会はあるのでしょうか。
マタイ18:8
もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。
私は考えます。私の両手両足が、人をつまずかせてしまっています。片方ではすまないことに気づきます。
マタイ18:9
もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、1つの目になっても命にあずかる方がよい。
私は考えます。私の両目が、人をつまずかせています。片方の目ではすまないことに気づきます。そうすると、私の存在すべてが、人をつまずかせてしまっていることに気づいてしまいます。イエス様の言葉の前では、救われる希望がまったくないことに気づくのです。いったい、どうすればいいのでしょうか。
イエス様が弟子たちに語っていること、私たち教会に語っていること、それは本当に厳しい言葉です。どのようにして、このイエス様の言葉を受けとめることができるのでしょうか。また、イエス様はいったいどのような思いを込めて、この言葉を語っているのでしょうか。教会、信仰者の集まり、一度、信仰を与えられた者が、信仰者の仲間から受けたつまずきによって、教会から離れてしまう。信仰から離れてしまう。これが、教会の現実です。その教会の現実に目を背けることはできません。
このイエス様の言葉から、受け止めることができることは、イエス様の本気度です。一度、信仰を持った者が、仲間からの受けたつまずきによって、信仰から離れてしまうことを、イエス様は本当に悲しんでおられるということです。イエス様は、自分の語った言葉を実際に行ったお方でした。人をつまずかせるなら、片方の手か足を切って捨ててしまったのです。片方の目をえぐり出して捨ててしまったのです。それは、イエス様の十字架の死です。イエス様はやがて、エルサレムに行き、逮捕され、尋問され、死刑が確定した後は、裸にされ、鞭を打たれ、肉が裂かれ、骨が砕かれました。その後、重い十字架を背負わされ、刑場まで運ぶことになりました。しかし、途中で倒れ、運ぶことができませんでした。刑場に着いた時に、両手に大きな釘が打たれ、十字架の木につけられました。十字架にはりつけにさせられ、死ぬまで、そのままにさせられました。本当の苦しみを受けてくださったのです。そして、十字架の上で死なれ、墓に葬られました。そして、3日目に復活されたのです。この十字架の苦しみは、私たちが永遠の命にあずかるためでした。
私は、イエス様のみ言葉を聞き、途方にくれてしまいます。どうしたらいいのだろうと考えます。ただただ、イエス様の十字架にすがるのみです。イエス様の憐みにすがるのです。どうか信仰者の仲間につまずきを与えることがありませんようにと、祈るのです。
祈り 神よ、平和聖日の礼拝を守ることができましたことを感謝します。あなたの信仰者に対する深い愛を知ることができました。あなたは、イエス様を十字架につけてまで、私たち一人一人に永遠の命を与えようとされました。あなたの愛のみにすがって歩んでいくことができるように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
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