讃美歌は、18(1)544(1)です。今日は戦後76年の終戦記念日です。
礼拝説教 マタイ18:15~20「天と地をつなぐ教会」 2021.8.15
8月15日を迎えました。この日は76年前、戦争が終った日でした。多くの人々が傷つけ合い、殺し合ったことが終った日でした。戦争という人間が行った大いなる罪の結果が見えた時でした。このような過ちを二度と繰り返してはならないという思いを持った時でした。私たちの多くは戦後に生まれた世代であり、本当の意味で戦争の恐ろしさを知らないです。だからこそ、戦争という現実をしっかりと知る努力が求められていると思います。
マタイによる福音書の18章は、教会における交わりの大切さ、特に教会内の弱い人々を配慮することが求められています。1人の幼子、1人の小さな者、迷い出た一匹の羊などがキーワードになっています。今日の箇所は、教会内で罪を犯した者をどう受け止めていくかが書かれてあります。イエス・キリストの体である教会は、人間の集まりです。もちろん、いろいろな問題や課題が起ってきます。そこに罪が生じてきます。そのような時に、教会はその罪を犯した者をどう大切にしていくことができるかと語るのです。
聖書の箇所をみていきたいと思います。教会員の交わりがあります。ある兄弟があなたに対して罪を犯した場合、どうしたらいいのかが問われています。罪を犯したことですが、どのような罪であるのか、具体的には書かれてありません。きっとすべての罪を想定しているのだと思います。まず、すべきことは、行って二人だけで忠告をしなさいです。きちんと具体的に話し合うことが大切なのです。罪を犯した兄弟が、あなたの忠告を受け入れてくれれば、関係はよくなり、それで解決したことになります。もし聞き入れなければ、他に一人か二人を一緒に連れて行き、忠告することになります。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定をされるようになるためです。それでも聞き入れなければ、教会に申し出るようにしなさいとなっています。教会に申し出るということですが、瀬戸永泉教会の場合では、長老会に申し出るということでしょう。教会の申し出も聞き入れなければ、その人を異邦人か徴税人と同様にみなしなさいといいます。
教会内でいろいろなことが起ってきます。その中に誰かが罪を犯した場合、その人をどうするかということですが、その人が罪を悔い改めることが求められています。3つの方法が書かれてありました。この方法を通して、その罪を犯した人が教会から離れることがないように最大限の配慮をすることが求められています。
はっきりと言っておくとイエス様は言われます。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきりと言っておくとイエス様は言われます。どんな願い事でも、あなたがたのうち二人が心を1つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのであると言われます。教会の大切さが言われています。
教会とは何でしょうか。教会の交わりとは何でしょうか。改めて考えてみると、私たちの礼拝の中で信仰告白として使徒信条が言われています。使徒信条は、キリスト教の信仰の真理を語っているものです。すべてが大切な部分ですが、イエス様はキリスト(救い主)であるという告白がなされています。これは私たちの罪の赦しが求められているということでしょう。イエス・キリストの十字架の死と復活は、私たちの罪の赦しのためになされていることです。つまり、使徒信条は、私たちの罪の赦しのために、イエス・キリストが十字架で死なれ、三日目に復活してくださったことを言っています。これは、聖書の中心的な内容です。
そして、信仰者は聖霊を受けて、教会に加えられ、復活の体と永遠の命受け、天の国を受け継ぐことができるようにしてくださったのです。聖書は、キリストの十字架と復活を指しており、罪の赦しが全世界に宣べ伝えられています。イエス・キリストによって、罪を赦され、神に立ち返り、聖霊に満たされるのです。イエス様は、罪の赦しを人々に教える務めを教会に与えてくださったのです。
マタイ16:18~19
わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
ここで書かれてある天国の鍵を教会に与えると、イエス様は言われています。天国の鍵とは、罪の赦しのことです。教会は罪の赦しと言う鍵を、イエス様から預かっているのです。教会にとって大切なことは洗礼と聖餐です。この2つとも罪の赦しを表しています。考えてみれば、教会の交わりは、イエス・キリストの十字架の死によって、罪を赦され、互いに赦し合うことによって成り立ちます。イエス・キリストが十字架にかかって命を捨ててくださり、私たちの罪は赦されたのです。だから、私たちは互いに罪を赦し合うことが求められているのです。
聖書の中心的なメッセージは罪の赦しの福音です。これは体験した人でなければ証をすることができません。伝道者としてペトロとパウロを簡単に取り上げてみましょう。ペトロのことは先週にも取り上げたことですが、ペトロは、イエス様が十字架を前にした最後の晩餐の時に、弟子たちの裏切りを語りました。ペトロはすぐに否定して、決してイエス様を裏切ることはしない。殺されても裏切らないと言いました。すると、イエス様はペトロに「あなたは鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないという」と言われたのです。実際、そのようになってしまいました。その後、復活されたイエス様が、ペトロの前に現れ、食事をした後で、「わたしを愛するか」と三度も問われて、弟子として再び活躍する道を導いてくださったのでした。パウロはどうでしょうか。パウロはイエス様に従う者を捕えることを積極的に行っていました。それを、イエス様は捕え、反対者から伝道者に変えてくださったのです。
この二人が伝道者として大いに用いられたのは、自分の罪の赦しの恵みがいかに大きいかを身を持って体験したからです。神は、罪の赦しを最も必要とする者を伝道者として立つことを導いてくださっています。教会の働きとは何かということを考えてきましたが、「罪の赦し」ということが本当に大切なことであることを確認することができました。
そして、最初に戻りますが、教会の交わりは、罪を犯し、イエス・キリストの十字架の死によって、罪を赦された者の交わりです。私たち一人一人のために、まず、神の子イエス・キリストが十字架につきてくださり、私たちの罪の赦しをしてくださったのです。
教会は、天の御国の鍵を預かっています。それは、罪の赦しの鍵です。教会は地上の歩みの中を歩んでいます。それは、天の歩みにもつながっているのです。教会を通して、罪の赦しがなされ、永遠の命、天の御国の約束が与えられています。一方で、教会は人間の集まりです。人間は罪を犯す存在です。その罪によって、教会の群れから離れてしまうことが多くあります。本当に悲しいことです。一度、罪の赦しを受けた者が、離れてしまう。そのことをイエス様はどれほど、悲しんでおられるのでしょう。私たちはどれほどのつまずきを与えてしまったのでしょうか。本当に何も言えなくなります。ただただ、イエス様の導きと守りにすがるほかありません。教会の内の罪によって、教会から離れた人々が、いつの日か、教会の交わりに戻ってくることができますように、祈るのです。
祈り 神よ、このように礼拝を守ることができましたことを感謝します。私たちは、イエス様の十字架の死によって、罪の赦しをいただきました。神の恵みによって、救いへと導かれ、教会の中に入ることがゆるされました。私たちはそれでも弱い者です。罪を犯し、多くのつまずきを起してしまいます。どうか、あなたが教会の歩みを支えてください。教会から離れて行った者が再び、信仰を回復し、教会の交わりに加わることができますように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。
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