8月8日の礼拝の内容です。

herd of sheep on focus photography 礼拝
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讃美歌は200(1)451(1)です。教会の増改築工事が進んでいます。

礼拝説教       マタイ18:10~14「迷子の羊のたとえ」      2021.8.8

 8月の第2日曜日を迎えました。週の初めの日曜日の礼拝を守ることができますことを神に感謝します。

新しい1週間も神の言葉を受けて、希望と感謝に満ちた時となりますように、祈ります。

 神はこの世界をつくり、私たちをつくってくださいました。神はいったい、私たちをどのように見ているのだろうと思います。マタイ18章は、教会の中における交わりの大切さについて書いているところです。1人の幼な子、1人の小さな者、迷い出た一匹の羊、このような視点で書かれてあります。これらは小さく弱くて危うい存在です。小さな子どもの場合、自分では何もすることができません。愛する親の守りと支えを必要としています。それがなければ子どもは死んでしまいます。一匹の羊ですが、羊はとても弱い動物です。自分の身を守るための武器を一つも持っていません。無力で無防備な動物です。良い羊飼いが必要です。この良い羊飼いが側にいて見守ってくれるから、安心して生きていくことができるのです。

 今日の聖書の箇所ですが、有名な迷子の羊のたとえです。神の愛について分かりやすく書いています。「これらの小さな者を1人でも軽んじることがないように気をつけなさい」とまず、言っています。そしてから、このたとえ話が始まっていきます。ある人に100匹の羊を飼っていました。その一匹が迷ってしまいました。イスラエルでは羊と羊飼いは、日常的な光景でした。羊は個人のものというより、村全体の共有のものでした。そこでは、2・3人の羊飼いがいつも一緒にいて、羊の面倒を見ているのでした。通常、羊たちは日中には草を食べに外で過していました。夕方になって、家に帰って来ます。その時に、羊飼いは、羊の数を数えるのです。そうすると一匹たりない、つまり、迷子になったと確認するわけです。すると、家に帰って来た羊たちを、1人の羊飼いが見て、他の羊飼いが、迷子のなった羊を探しにいくということになります。

 このたとえ話は、1人の羊飼いがいて、その羊飼いは100匹の羊を飼っていた。そのうちの一匹が迷子のなったというのです。そして99匹を山に残しておいて、迷い出た羊を探しに行くわけです。実は一人ではなかったのではないか、他にも羊飼いがいたはずだなどと考えられてきました。99匹を山に残しておいてというのは、とても危険なことです。迷子になった一匹を探しに行くために、99匹も失うことになるかもしれないリスクがあったのです。それを承知で、行動するのはあまりにも愚かだと思うからです。私の考えでは、迷子になった一匹の羊は諦めます。99匹いれば安泰だからです。また、羊の赤ちゃんが生まれれば、それでいいのです。

 私は教会の一部の土地を使って野菜をつくっています。今は、キュウリとミニトマトです。少しずつですが、収穫を楽しんでいます。野菜作りで大切なのは、必要のないところを切るという作業です。実をつくるところに栄養をいくようにするためです。羊と野菜を一緒にすることはできませんが、あきらめも大切です。

 しかし、このたとえ話の羊飼いは、特別です。99匹を見捨てても、迷子になった一匹の羊を探しにいくのです。迷子の羊のために、命をかける羊飼いです。その迷子になった羊を見つけ出すことができれば、その一匹のために大喜びします。もし、見つけ出すことができなければ、その失われた一匹の羊の命のために、深く嘆き、悲しみ、心を痛めるのです。このように小さな者の1人が滅びることを決して望まず、1人も失われずに、滅ぼされることもしない。生き延びることを心から願い求めてやまないのです。

 この迷子の羊のたとえを読む時に大切なのは、迷子になった羊は誰かということです。それは、あなたであり、私です。自分が迷子になった一匹の羊なのです。そう受け止めていくと、羊飼いの行為のありがたさに気づきます。このような弱い愚かな自分のために、そのようにしてくださったということになります。この良い羊飼いというのは、神のことであり、イエス様のことです。

 この迷子の羊のたとえ話を読む時に、私はペトロのことを考えます。ペトロの歩みを通して、神の愛とは何かを考えることができます。内容的にはヨハネによる福音書21章になります。復活されたイエス様がペトロに語りかけます。イエス様の十字架の死後、弟子たちはガリラヤに戻っていました。そこに復活されたイエス様が現れるのです。イエス様と弟子たちは一緒に食事をとりました。その後のことで、イエス様がペトロに語りかけるのです。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と。ペトロは答えて「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と言います。イエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と言われます。そのようなやり取りが3回ありました。ペトロはイエス様が3回も同じように聞かれるので悲しくなったと書いてあります。

 これには、ペトロにとって悲しい過去がありました。最後の晩餐の時に、イエス様は弟子たちに、裏切りを語ります。でもペトロは、自分は決して裏切らない。命を捨てても、イエス様に従っていくと強く誓うのでした。イエス様はペトロに言います。「わたしのために命を捨てるというのか。はっきりと言っておく。鶏が鳴くまでに、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と。そして、イエス様の言われた通りに、ペトロは鶏が鳴く前に、三度、イエス様のことを知らないと言ってしまったのです。そのペトロを、逮捕されたイエス様は見てしまいました。ペトロは外に出て激しく泣いてしまったのです。

 この時に、ペトロは自分の弱さを知りました。自分の弱さを知って激しく泣いてしまったのです。ペトロは、この時のイエス様のまなざしをどのように感じていたのでしょうか。復活されたイエス様は、今度も同じまなざしで、ペトロに語っているのです。「わたしの羊を飼いなさい」と。イエス様はペトロに「わたしに従いなさい」と言われるのです。つまり、一度はイエス様のことを裏切ったペトロのことを赦し、再びイエス様の弟子として召してくださるのです。その後のペトロの活躍については、使徒言行録が記している通りです。

 良い羊飼いであるイエス様の目には、100匹の羊の一匹一匹が大切なのです。迷子になった一匹の羊、それはあなたであり、私です。この小さな者である私のために、イエス様は十字架で命を捨ててくださいました。それは、私たちが本当の命を得るためにです。命を捨ててまでも、私たちを愛してくださっているのです。この迷子の羊のたとえを通して、神の愛とは何か、イエス様の愛とは何かを、私たちに教えてくださっているのです。そして、イエス様は、ペトロに「わたしに従いなさい」と言われたように、私たち一人一人にも「わたしに従いなさい」と言ってくださっているのです。それは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言っているのです。私たちは、神に、イエス様に愛された者として、「互いに愛し合う者でありたい」と、心から願います。

祈り 神よ。あなたのみ言葉をありがとうございます。あなたのみ言葉を支えにして、この1週間もあなたの御心にそう歩みをすることができるように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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