9月17日の礼拝の内容です。

礼拝

9月17日の礼拝の内容です。讃美歌は、197.361.404.434.27です。

礼拝説教    使徒5:1~11「アナニアとサフィラから学ぶこと」   2023.9.17

 新しい1週間が始まりました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から神に感謝します。この礼拝を通して、私たちの1週間の歩みがよりよいものをなりますようにと祈ります。

この礼拝では、使徒言行録を読んでいます。イエス様の弟子たちに神からの聖霊が下りました。この聖霊の働きによって、弟子たちは大きく変りました。何よりも、イエス・キリストの福音を知ることができたのです。そして、弟子たちは外に出て行きました。大通りに出て、大胆にイエス・キリストの十字架の救いを語り始めたのです。力強く伝道活動が始まって行きました。多くの者が、イエス・キリストを信じて洗礼を受けて、教会に交わりに加わって行きました。使徒言行録は初代教会に様子を描いています。それは、理想的な交わりでした。

使徒2:44~45

信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。

使徒4:32~37

信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。

 このように初代教会の様子は、信者たちは、すべての物を共有していました。自分たちの持っている財産や持ち物を売り、皆が必要に応じてそれを分け合っているのです。土地や家を持っている人が皆、それを売って代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、そのお金は必要に応じて、それぞれに分配されたのです。そこでバルナバのことが例として出ています。バルナバも自分が持っていた畑を売って、その代金を弟子たちの足もとに置きました。このように初代教会の様子は、とても素晴らしい交わりと配慮に満ちたものあることが分かります。しかし、今日の聖書の箇所は、それを打ち砕くような悲しい内容となっています。とても辛いものです。

 アナニアとサフィラの事件です。この夫婦は相談して、自分たちの土地を売りました。そして、その代金をごまかして、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いたのです。細かくいいますと、2人は土地を売りました。そのすべての代金を使徒たちの足もとに置いたのではなく、一部だったのです。他は自分たちのものとして、残しておいたのです。すべての代金を持ってきたかのように見せています。ペトロはそのこと見破っていいます。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」と。この言葉を聞きますとアナニアは倒れて息が絶えてしまいました。つまり、死んでしまったのです。若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬ります。

それから3時間が過ぎます。アナニアの妻サフィラがアナニアの死を知らずにやって来ます。ペトロはサフィラに話しかけます。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。いいなさい。」と。サフィラは「はい、その値段です」といいました。ペトロは「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」 と、いいます。すると、彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えたのです。青年たちは入って来て、サフィラの死んでいるのを見ると、運び出し、アナニアの側に葬りました。教会全体と、これを聞いた人は皆、非常に恐れたとあります。

もう一度確認しますと、2人の行為は、自分たちの土地を売ったのです。そして、その代金を使徒たちの足もとに置いたのですが、2人は、この代金が土地の代金のすべてだといっているのです。実は、ウソで、代金の一部で、残りは自分たちのところにあったのです。正直に、これは土地の代金の一部ですといえば何の問題でもないのです。自分たちの土地や家を売って、教会にささげることは自主的なものでした。決して強制的なものではなかったのです。だから、この2人が正直にいえば何の問題も起らなかったのです。しかし、このウソの結果はとても厳しいものになりました。ペトロは、あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたといい、死を招いてしまうことになりました。

どうして、このようになってしまったのか。2人に悔い改めのチャンスはなかったのかといろいろと考えてしまいます。使徒言行録は、正直に書いています。初代教会であっても、人の罪があるということです。聖書は旧約聖書も新約聖書も人間の罪をしっかりと隠すことなく書いています。しかし、この2人の問題は一体何かということを確信することはとても大切なことだと思います。この2人の出来事と似たような事件が旧約聖書にあります。ヨシュア記の中のアカンの罪です。

ヨシュア記7:19~25

ヨシュアがアカンに、「わたしの子よ。イスラエルの神、主に栄光を帰し、主をほめたたえ、あなたが何をしたのか包み隠さずわたしに告げなさい」と言うと、アカンはヨシュアに答えた。「わたしは、確かにイスラエルの神、主に罪を犯しました。わたしがしたことはこうです。分捕り物の中に一枚の美しいシンアルの上着、銀二百シェケル、重さ五十シェケルの金の延べ板があるのを見て、欲しくなって取りました。今それらは、わたしの天幕の地下に銀を下に敷いて埋めてあります。」ヨシュアの出した使いたちがアカンの天幕に走って行って見ると、果たして彼の天幕の中に、銀を下に敷いて地下に埋めてあった。彼らはそれを天幕から取り出して、ヨシュアとイスラエルのすべての人々のもとに運び、主の前にひろげた。ヨシュアはゼラの子アカンはもとより、銀、上着、金の延べ板、更に息子、娘、牛、ろば、羊、天幕、彼の全財産を取り押さえ、全イスラエルを率いてアコルの谷にそれらを運び、こう宣言した。「お前は何という災いを我々にもたらしたことか。今日は、主がお前に災いをもたらされる(アカル)。」全イスラエルはアカンに石を激しく投げつけ、彼のものを火に焼き、家族を石で打ち殺した。

 ヨシュア記は、イスラエルの人々が約束の地に入って行き、その土地を征服し、土地を12部族で分割することが書かれてあります。ちょうど、エリコとアイの攻撃の場面です。エリコの町をイスラエルの人々はすべて焼き尽くすことが求められています。人々も家畜も持ち物をすべて滅ぼし尽くすことが求められています。イスラエルの人々によってエリコとの戦いは、神に焼き尽くすささげものをささげることを意味しています。ですから、その一部でもアカンがしたように自分の物として盗むことは、神の御心に反することになってしまい、アカンは自ら神の裁きを招き、死ぬことになったのです。家族も一緒に、その罰を受けることになってしまいました。厳しい裁きです。

 アナニアとサフィラの罪、アカンの罪、それは神にささげたものを自分のものとしてしまったということです。よく考えてみると、私たちはいろいろな物を所有しています。土地も家も、スマホもパソコンも自分のものだと思っています。自分の命も自分のものだというのでしょうか。この世界にあるすべてのものは神のものです。私たちは、自分たちの命も自分たちの人生も、私たち自身のものではありません。それは、すべて神のものです。私たちは、神から一時的に預かっているにすぎないのです。そのような意味では、私たちのこの2人とアカンと同じ罪を犯していることになります。神のものを自分のものだと思っていることです。本来なら、この2人とアカンのように神からの裁きを受けることになるはずです。すべての人々がこの罪を犯し、神の裁きを受けなければならないのです。

 それを、神の子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださいました。このことが私たちの罪の赦しになっていくのです。どこまで私たちは、自分の罪と、神の裁きと赦しを知ることができるのでしょうか。どれだけ、イエス・キリストの十字架の死と復活が、私たちに対する神からの愛だと知ることができているのでしょう。イエス・キリストの十字架は、本当は私たち自身が負わなければならないものでした。それを、神の子イエス・キリストがすべてを引き受けて、十字架についてくださったのです。

祈り 神よ。あなたを礼拝することができたことを心から感謝します。今日の聖書の内容はとても厳しいものでした。神よ。あなたは私たちに正しさを求めています。しかし、それを行うことができないのも私たちの現実です。あなたの正義と愛が現れているのが、御子イエス・キリストの十字架です。この十字架を見上げながら、あなたの御心を少しでも知ることができるように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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