祈祷会 レビ記16章「贖罪日」 2021.9.1
このレビ記16章は、イスラエルの人々が最も大切にしていることが書かれてあります。それは罪の贖いです。年に一回、第7月の10日に行われます。贖罪日と呼ばれています。イスラエルの人々が、神に対して隣人に対して犯してきたすべての罪がぬぐい取られ、赦されていくのです。その日は、自分たちの罪を意識し、それを悔い、悲しみ、その赦しを神に願う時です。その日には断食も行われます。
幕屋は神とイスラエルの人々が出会う場所ですが、幕屋の中で大切な場所は、聖所ですが、最も大切な場所として至聖所があります。ここには契約の箱だけがあり、契約の箱の上部を贖いの座といいます。この至聖所は、最も大切な場所であるといいましたが、年に一度、この贖罪日に大祭司だけが入ることをゆるされた場所です。では、どのように贖罪日が守られているのでしょうか。
神はモーセに、アロンに語るように言います。レビ記10章の最初に、アロンの二人の息子ナダビとアブフが主の命じられたものではない炭火をとって香をたきました。すると神から火が出て二人を焼き、死んでしまいました。その直後に、言われたことです。決められた時以外に、至聖所に入ること、契約の箱の上にある贖いの座に近づくことはゆるされないのです。もしかしたら、二人の息子はゆるされない場所に入ってしまったのかもしれません。
大祭司が至聖所に入る時は、贖罪のささげものとして若い雄牛一頭、焼き尽くすささげものとして雄羊一匹を用意します。大祭司は聖別した祭服を着ます。次に、イスラエルの人々の共同体から贖罪のささげものとして雄牛を用意し、自分と一族のために贖いの儀式を行います。次いで、雄山羊二匹を受け取り、幕屋の入り口で、くじを引きます。一匹を主のもの、他の一匹をアザゼルのものと決めます。大祭司はくじで主のものに決まった雄山羊を贖罪のささげものに用います。くじでアザゼルのものと決まった雄山羊は、生きたまま留めておき、贖いの儀式を行い、荒れ野のアザゼルのもとへ追いやるものとします。アザゼルとは荒れ野の山羊の魔神と考えられていました。(レビ記17:7)
大祭司は年に一度だけ、至聖所に入って、イスラエルの人々の罪の贖いをするのですが、まず、自分の罪の贖いをしなければなりません。その後、自分の一族の罪の贖いもするのです。そしてから、イスラエルのすべての人々の罪の贖いをすることができるのです。アロンは自分の贖罪のささげもののために雄牛を引いてきます。その雄牛を屠ります。次に、祭壇から炭火を取って香炉に満たし、細かい香草の香を両手いっぱい携えて至聖所に入り、香を火にくべ、香の煙を雲のように漂わせ、契約の箱の上の贖いの座を覆わせます。次に、雄牛の血を取って、指で贖いの座に東の面に振りまき、血の一部を指で、贖いの座の前方に7度振りまきます。
イスラエルの人々の贖罪のささげもののために雄山羊を屠り、その血を至聖所に持っていき、贖いの座の上と前方に振りまきます。このようにして、大祭司は、イスラエルの人々のすべての罪による汚れと背きのゆえに贖いの儀式を行います。その儀式が終ると至聖所から出て来て、聖所の祭壇で贖いの儀式を行います。雄牛の血と雄山羊の血の一部を取って祭壇の四隅の角に塗ります。血の一部を指で7度祭壇に振りまいて、イスラエルの人々の汚れから清めます。至聖所、幕屋、祭壇の贖いの儀式を終えると生かしておいた雄山羊を引いて来させ、大祭司はこの生きている雄山羊の頭に両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪を告白し、これらすべてを雄山羊の頭に移し、人に引かせて荒れ野の奥へ追いやります。雄山羊は人々のすべての罪責を背負って荒れ野に追いやられます。
イスラエルの人々にとって、年に一度の贖罪日は特別なものでした。何も仕事をしてはいけないし、断食もしなければなりませんでした。大祭司が年に一度、この日だけ、至聖所に入って、人々の罪の贖いをするのです。この大祭司は不完全であり、自分の罪の贖い、一族の罪の贖いをした上で、イスラエルの人々のすべての罪を贖う儀式を行うことができたのです。
ヘブライ人への手紙9:11~14
けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。
ここには、イエス・キリストによる完全な罪の贖いがあることを語っています。人間である大祭司は罪があり、まず自分の罪の贖いをしなければ、人々の罪の贖いをすることができないのです。しかし、神の子イエス・キリストは罪のないお方であり、十字架の死を通して、私たち人間の罪の贖いをすることができたのです。
祈り 神よ。レビ記の学びをありがとうございます。贖罪日、すべての人々の罪の赦しがなされる日でした。それが、イエス・キリストによる十字架の死が、完全なすべての人々に罪の赦しになっていることを確認することができました。感謝します。この感謝を、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。
皆様の祈り「 」アーメン。
共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)
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