9月25日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、16(1)459(1)26です。10月16日には教会創立記念日を迎えます。

礼拝説教   出エジプト記3:1~12「神の情熱は消えず」(小椋実央牧師) 2022.9.25

9月の第四主日を迎えました。私がこの講壇で説教をさせていただくのは月に一回、主にその月の最後の主日になるのですが、月に一度というサイクルのせいか季節の移り変わりを強く感じさせられます。そろそろ桜が咲くなぁと思っていると、次に講壇に立つ頃には桜がすっかり青葉になっていて、梅雨になったかと思えば、その次には真夏になっていて、そして先日の台風が一気に秋を連れて来たなぁと感じています。特に何をするというわけでもなく、なんとなく生活に追われていると、あっという間に季節が変わり、時が過ぎていきます。

一生懸命に生きていても、だらしなく生きていても、私たちは皆平等に同じように時は流れて、同じように一つずつ年を重ねていきますから、日曜日ごとに日常生活にくさびを打ち込むようにみ言葉に触れて、日曜日ごとに復活する。というと少し大げさかもしれませんが、罪にまみれた生活から新しく息を吹き返して、聖霊に満たされて、日曜日ごとに清々しく新しい一週間を始めたいと思います。

2022年度は4月から始まりまして、この9月で折り返し地点を迎えようとしています。今年度の前半は、私がここで担当させていただく時は主に旧約聖書からみ言葉を選ばせていただくことにしました。その理由はしごく単純で、教会学校で使っている教案が今年は旧約聖書にスポットをあてているので自分自身も新たに学びたいという思いもありますし、逆に教会学校で学んだことを、ここでみなさんと分かち合いたいという思いもありまして、旧約聖書をとりあげることにしました。前回までは2回続けてヨセフ物語をご一緒に読ませていただきましたが、今日からは2回続けてモーセの物語に耳を傾けたいと思います。

長く教会に足を運ばれている方で、モーセを知らない方はおられないのではないかと思うぐらい、モーセは旧約聖書の中では重要な人物です。今日お読みした出エジプト記は、ほとんどモーセの物語と言ってもいいかもしれません。念のために、あまりモーセのことをよく知らない、という方のためにご紹介しますと、まず旧約聖書というのはイスラエルという小さな民族が神の民として選ばれて成長していく物語。言ってみるとイスラエルの歴史をまとめたもの、かなり偏った視点になっていて、全ての歴史を網羅しているわけではないのですが、旧約聖書はイスラエルの歴史の書物だと言うことができます。その長い歴史の中で、イスラエルの人たちが一時的にエジプトで奴隷状態にありました。そこから脱出をする。エジプトから脱出をして、長い荒れ野の旅を経て、神の民として成長をしていく。その時にリーダーの役割を担ったのがこのモーセという人物です。

今日お読みした箇所は、モーセがリーダーとして、指導者として神に選ばれて召し出されるという場面なのですが、読んでお分かりのとおり、彼はなりたくて指導者になったわけではないんですね。私がイスラエルを救ってやるんだ、私にはその才能があるんだ、と思っていたのではなくて、むしろ正反対でした。モーセは何十万人というイスラエルの人々の上に立つような器ではなくて、片田舎でひっそりと羊飼いをしていました。今日はお読みしませんでしたが、後半の4章には自分は口下手だから、とうていそんな大役は引き受けられない、と言って断ろうとする場面も出てきます。しかし神さまはモーセの兄であるアロンを交渉役として立てることで、無理やりモーセを引きずり出して、イスラエルの指導者として立ててしまいます。

このリーダーに選ばれる場面もそうですが、モーセという人物はどこか憎めない、人間臭い、泥臭いところがあって、旧約聖書の登場人物でものすごく人気がある、というわけではないかもしれませんが、どこか隅に置けないというか、気になる存在かもしれません。私の中でモーセに関して一番印象に残っているのは、シナイ山で十戒を授かる場面、正確には授かった後の場面と言ったらいいのでしょうか。人々が金の子牛をつくって騒いでいるというのを聞き付けて、モーセは怒りに駆られて山から駆け下りてくるのですけれども、人々の惨状を見るや否や、神さまから授かった二枚の板を粉々に打ち砕いてしまう、という場面です。せっかく神さまがくださった二枚の板を壊してしまって、大丈夫なのかなと思うのですが、その後また改めて、新しく十戒が記された二枚の板を神さまからもらうことになります。このことに対して、「どうしてあんなに大事ものを割ったんだ」という神さまからのお咎めもなければ、「勢いで板を割ってしまってすいません」というモーセの謝罪もなくて、当たり前のように神さまが新しい板を用意して、当たり前のようにモーセがそれを受け取っていく。ここに神さまとモーセの信頼関係と言いますか、神さまがモーセの性格をよく分かっていて、そのことも含めてモーセを指導者として立てているし、モーセも神さまのことを信頼しているんだなぁ、ということがよく分かる場面で、とても好きな場面、ほっとするような、安心するような場面です。それ以外にも、何十万人というイスラエルの人を率いて荒れ野を40年も旅をして、しかし最終的にカナンの地には、モーセは入ることはできない。なかなか苦労が報われないと言ったらいいのか、苦労人と言ったらいいのか、しかしモーセのそんな姿に親近感を覚える方も多いのではないかと思います。

先ほども申し上げたように、モーセ自身はイスラエルのリーダーとなるべく人生を歩んできたという自負は全くなくて、人生において何かを成し遂げるどころか、何もかも中途半端な人生を歩んできたと言ってもいいかもしれません。モーセはわけあってエジプトの王宮で、もらい子として、正確には川から引き上げた子としてエジプトの王女に育てられるのですが、だからといってエジプトで王になったわけではなく、高い身分についたわけではありませんでした。青年時代、まだエジプトいる頃に、正義感にかられて同胞を助けようとして自分にとって恩があるはずのエジプト人を殺してしまうのですが、結局その行為は同胞に受け入れてもらえなかった。ひとりよがりで、無駄に殺人を犯してしまう、という経験をします。そして殺人の罪に追われて逃亡した結果、ミディアンの地で祭司の娘と結婚するのですが、だからと言って祭司になれるわけでもない。この時モーセは息子にゲルショムという名前をつけるのですが、これは寄留者、異国の地で身を寄せて暮らす者という意味です。「わたしは異国にいる寄留者だ」という言葉から、モーセの思いが分かるような気がします。勿論積極的に解釈をすることはできます。色々なことはあったけれども、こうして異国の地で守られて生活をすることができている、という感謝の思いもあったことでしょう。しかし同時に、生まれた時から親の顔を知らず、ヘブライ人でありながらエジプト人として育てられ、だからといってエジプト人に成りきることもできずに、今はこうしてミディアンの地にいる。しかしここでもミディアン人に成りきることもできない。自分自身は一体どこから来て、どこへ行くのか、これと言った確信も持てずに、頼りない思いを抱いて、しかし人並みに年齢だけは重ねて過ごしていたのではないかと思うのです。

ミディアンの地で祭司の娘と結婚をし、子どもを与えられて、おそらくモーセの中では人生の主要なことの大半は終わったと思っていたのではないでしょうか。羊を追いながら、穏やかに老後を迎えるのみとモーセが思っていたかどうかは分かりませんが、イスラエルの人々をエジプトから救い出すなどという大役を任されることは想像もつかなかったはずです。モーセにとって人生の大半は終わったはずでしたが、神さまにとってはモーセの人生は「これから」でした。ここに至るまでの道のりは、モーセが指導者として立てられるための長い準備期間にすぎなかったのです。振り返ってみれば、モーセは過酷な時代に生まれました。全てのヘブライ人の男の子は生まれたらすぐに殺せとエジプトのファラオに命じられていたのです。モーセは生まれてすぐに殺されていてもおかしくはありませんでした。しかし母親や姉の機転により、かごにいれて川に流されます。これも失敗すればおぼれて死んでしまう可能性もありました。しかし生きて拾われただけではなくて、エジプトの王宮に住む王女に見出されたために、まるで王宮で育てられる王子や王女のように恵まれた環境で育つのです。恵まれたというのは食べ物やお金がある、というだけではなくて、後に指導者として必要となる語学や教養、作法や礼儀も身に付けたことでしょう。成年男子として武器の使い方、戦車を操ること、体を鍛えることも日々欠かさなかったに違いありません。そしてミディアン地方でイスラエルとは全く異なる文化を持つ異邦人社会に溶け込み、家庭を持つことによって、この先イスラエルの民が旅をする異邦人社会においてどのように相対するかを学びました。

モーセが経験したことは、これまではバラバラの秩序のない出来事であったにもかかわらず、神さまがモーセを召し出した時、それは一つの線としてつながりました。いや、すでに神さまの側では一本の線としてつながっていたことに、人間の側が気づいていなかっただけで、神さまは生まれた時からモーセと共にいて情熱を燃やし続けておられたのです。私たちを愛し、救いたいという神さまの情熱は一瞬たりとも途絶えることなく、常に赤々と燃え続けているのです。

イスラエルの指導者であるモーセと自分自身を比べるのはなんともおこがましい気がするのですが、どうぞおゆるしください。私は金城学院で中学生の聖書科の授業を受け持っています。数えてみたら今年で14年目になるのですが、14年間ずっと中学3年生を担当しています。学校によっては聖書科の試験をしない学校もあるようなのですが、金城では他の数学や英語と同じように試験があって、成績もつけます。年に3回、1学期、2学期、3学期と期末テストがあります。よく、聖書ってどんな試験をするの?と聞かれるのですが、6割から7割が知識を問う問題、暗記して答える問題ですね。イエスさまのお母さんの名前を書きなさい、でしたら答えはマリアと書く。聖餐式、と言う字を正しい漢字で書く。など、授業でやったことを暗記して答えるのが6割から7割ぐらい。残りの4割から3割が聖書を読んで考えたことだとか、感じたことを書いてもらう。ただしこれは採点が難しいので、書けばだいたい〇がもらえる。漢字の間違いなどは厳しくチェックしますけど、どう感じたか、ということは評価しづらいので、だいたい〇がもらえるサービス問題になっています。だいたい平均点が60~70になるようにテストを作っています。ここだけの話ですけど、自分で作っておきながら、自分でも100点とれないんですね。聖書地図があって、A、B、Cとあって、テサロニケはどこでしょうみたいな問題もあるので、そこまで覚えていないので私も分かりません。それでも1人、2人は100点をとるので、すごいなぁと思います。

この試験の時に、裏面に自由にコメントを書いてもらうのですが、断トツで多い質問が3つあります。一位と二位はどちらも甲乙つけがたい、どちらも同じぐらいよく質問されるのが「どうしたら男性にもてますか」「どうしたらお金持ちになれますか」です。これは毎回頭をひねって、真面目に答えたり、ウケをねらって答えたり、質問を書いてくれた生徒には全員私もコメントして返します。それで3番目に多いのが「どうして学校の先生になったんですか」という質問。多くの人が私が子どもの頃からすごく先生に憧れていて、努力をして、先生になった、夢を実現させたと思っているみたいなので、たぶんこの質問が多い。なのでテストの時だけでなくて授業中にも話すことがあるのですが、実は先生になりたいなんて思ってなかったし、みんなと同じ中学3年生の頃は学校の教師なんて一番嫌いな人種で、まさか自分が講壇に立って教える側になるなんて思ってもみなかった、という話をすると生徒はぽかーんとした顔をして聞いています。ただ自分が牧師という仕事に神さまから招かれているのではないか、と思ってそれに応えていく中で、子供たちに聖書を解き明かすという仕事を示されたと感じて、言い方は悪いですけど、流されていくうちにこうなったんだ、と。

だから、こんな仕事に絶対つきたくない、という仕事に将来つくかもしれないし、こんな人と仲良くしたくないと思う人と結婚するかもしれないし、それは分からない。自分の夢を実現することも大事だけど、ちょっと自分の夢は脇において、神さまは私に何を期待しているかな、って考えるクセをつけてごらんって。大学に進学する時、就職する時、結婚をする時、人生の節目で自分がやりたいこと、神さまが期待していること、両方考えるといいと思うよ、という話をすることにしています。

私たちも日々、自分のやりたいこと以外に忙殺されて、なんだかよく分からないうちに1日が終わってしまった、1年が終わってしまった、ということがあります。自分自身の生活を振り返ってみても、およそ信仰的とは言い難い、欲まみれの生活だったりもしますけれども、しかし、神がモーセと共に歩んでくださったように、神さまは私たちの生活全てをご存じで、共に歩んでくださっている。一見すると私たちの生活は秩序がなくてバラバラのように思えるけれども、何ひとつ無駄なものはなくて、神さまの側では筋が通っている。全て必要なものとして神さまに備えられているのです。であるならば、神さまを信頼して、感謝の思いをもって過ごしたいと思います。神さまはモーセの時と同じ情熱を、私たち1人1人に燃やし続けておられます。神さまの救いのご計画がこの地上の隅々にまでいきわたるようにと祈りつつ、私たちもまた新しくされて、この一週間の旅路を始めたいと思います。

<祈り>御在天の父なるかみさま。あなたの深く激しい愛に支えられて、み言葉にあずかる幸いを感謝いたします。私たちがあなたに無関心であっても、あなたが私たちに無関心である日は一日もないのだということを改めて知り、驚きつつ感謝します。どうぞ私たちを用い、救いのみわざとして私たちを遣わしてください。そして疲れた時、傷付いた時、いつでもあなたの元にもどって憩うことができますように。このお祈りをイエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

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