10月30日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、570(1)197(2)361(1)27です。11月6日は、聖徒の日(永眠者記念日)です。

礼拝説教        マタイ26:69~75「ペトロの涙」      2022.10.30

 10月の最後の日曜日を迎えました。最近、感じることですが、時の流れの早さを感じます。1日1日を大切にしていきたいと思います。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができることを心から感謝します。神の言葉をいただいて、よりよい1週間の歩みをしていきたいと願います。

 イエス様は、まもなく十字架におつきになられます。過越し祭を祝うために、イエス様は弟子たちと共にエルサレムに入られました。過越しの食事、最後の晩餐、ゲッセマネの祈りをし、裏切ったイスカリオテのユダが敵の仲間を大勢連れてきました。イエス様は自ら進んで逮捕されました。この時に、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げてしまったのです。逮捕されたイエス様は、大祭司の屋敷に連れて行かれました。一度は逃げたペトロですが、少し離れて、イエス様の後を追いかけていきます。そして、大祭司の屋敷まで入っていくのです。無謀と思える行動です。いつ、イエス様の仲間と分かってしまえば、逮捕され、十字架刑にされるかもしれません。

 今日の聖書の箇所は、逮捕されたイエス様が連れて行かれた大祭司の屋敷で、ペトロが、イエス様のことを3度、知らないという場面です。その前に、ヨハネによる福音書から、復活されたイエス様とペトロの会話が書かれてあります。そこからみていきたいと思います。

ヨハネ21:15~19(二人の会話のみ)

  • イエス「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」
  • イエス「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」
  • イエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」

このイエス様とペトロの会話ですが、イエス様がペトロに「わたしを愛しているか」と尋ねています。

すると、ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えています。イエス様の問いにペトロが「あなたがご存じです」という言葉が強調されています。イエス様がペトロに「わたしを愛しているか」と聞かれ、「わたしはあなたを愛しています」と答えると思うのですが、あえて「わたしがあなたを愛していることはあなたが、ご存じです」といっています。この意味を、今までの流れを振り返るとみえてきます。

 過越しの食事の時に、イエス様は弟子たちに「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの1人がわたしを裏切ろうとしている」と弟子たちが問われた時に、弟子たちは「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めています。弟子たちはこの時に非常に心を痛めています。そして、弟子たち全員の裏切りを語ります。

マタイ26:31~35(イエス様とペトロの会話のみ)

イエス「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」 ペトロ「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」イエス「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロ「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」

 イエス様とペトロの会話を見ていますが、イエス様が弟子たちに、皆がわたしにつまずくといった時に、ペトロは「わたしは決してつまずきません」と強くいっています。それに対して、イエス様が「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」といいます。もちろん、ペトロは激しく拒否しています。決して申しませんと。この時に、ペトロの思いは正直に、そのように考えていたはずです。イエス様が逮捕される時に、1人で剣を取って、敵に切りかかっていったからです。命をかけていたはずです。ところが、イエス様に止められて、ペトロはどうしていいのか分からずに、その場を逃げるしかありませんでした。一度は逃げたペトロですが、戻って、イエス様の後を追いかけます。イエス様が連れて行かれた大祭司の屋敷まで入っていくのです。敵のただ中に入っていったと同じです。大きな勇気だと思います。そして、今日の聖書の箇所になります。

ペトロは外にいて中庭に座っていました。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言いました。ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言います。ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言います。そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消します。しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言います。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めます。するとすぐ、鶏が鳴いたのです。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出しました。そして外に出て、激しく泣いたのです。

ペトロがイエス様のことを知らないといっている場面です。3度、否定しています。①「何のことを言っているのか、わたしには分からない」②「そんな人は知らない」③ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と。ペトロは、イエス様にいいました。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。」「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と。それなのに、実際は3度もイエス様を知らないといってしまったのです。この時、ペトロは大祭司の家で、非常に緊張した場面にいました。自分がイエス様の仲間だと分かれば、自分もイエス様と同じ状況になってしまうと思っていたでしょう。ペトロに声をかけた人たちも、捕まえようと思えば、捕まえることはできました。でも、実際はそうしなかったのです。彼らは、ペトロには関心がなかったのかもしれません。しかし、ペトロ自身はそうは考えていなかったと思います。強い緊張感の中にありました。それで、イエス様を知らないといってしまったのです。

人間の弱さというのでしょうか。それは自分がやはり大切なのです。自分がかわいいのです。自分は、イエス様と一緒に死にたくはないのです。イエス様との関りを捨てることによって、自分の命を守っています。ここで本当にペトロは自分の弱さを感じたと思います。その自分の弱さを感じたことの一番のことは、イエス様の言葉があったからです。3度、否定した後、すぐに鶏が鳴きました。ペトロは「鶏が鳴く前に、あなたは3度わたしを知らないというだろうといわれたイエス様の言葉を思い出し、外に出て、激しく泣いたのです。

イエス様に対するペトロの裏切りではなく、ペトロの裏切りを、ペトロが気づく前から、イエス様が知っていました。ペトロの弱さをイエス様が知っていたこと、それをペトロが知るのです。自分の弱さに気づくということ、それは自分だけでは気づけないのかもしれません。このような話を聞きました。ある人が人を殺して逃げています。見つかることなくずっと逃げとおします。その人は、見つからないことで安心して生活していくことができるでしょうか。ある日、犯人だと分かり、警察に逮捕される、きっと犯人はほっとしたのではないかと想像します。ペトロが自分の弱さを本当に知ることができたのは、イエス様に見られたからです。それも、イエス様に事前にいわれた言葉がそのまま実現してしまう。自分の弱さと、イエス様のまなざしを知り、ペトロは、心から激しく泣くことができたのです。だから、最初の復活されたイエス様とペトロの会話をみましたけれど、ペトロが「あなたを愛していることは、あなたがよくご存じですといえたのです。ペトロは、イエス様のもとに帰ることができたのです。

イエス様が十字架におつきになることですが、祭司長たち、民の長老たち、律法学者たち、イスカリオテのユダたちの手によって、十字架につくことになっています。でも、彼らが主人公ではありません。確かに、イエス様を十字架につける役割はしています。イエス様を十字架につけることの主人公は、神ご自身です。神のご計画でした。ゲッセマネの祈りの中で、イエス様が「あなたの御心がなるように」と祈られましたが、神のご計画なのです。神は、私たち人間の罪を贖うために、独り子イエス・キリストを十字架におつけになるのです。イエス様の十字架の死は、神の意志でした。私たちの罪を赦すこと、永遠の命を与えること、これが神のご意志なのです。

祈り 神よ。ペトロの否認と涙をみてきました。ペトロを通して、人間の弱さを改めて知ることができました。自分の弱さとペトロの弱さを重ねてみました。イエス様はペトロの弱さを知っていました。そして、現実にペトロ自身、自分の弱さを体験していきました。自分の弱さをペトロが知って、そのことをすべて受け止めてくださるイエス様のことを知ったペトロは、外に出て激しく泣くことができました。神のもとに帰ることができるようにしてくださったのです。イエス様の十字架は、神のご計画でした。私たちの罪を贖ってくださること、心から感謝します。この感謝を、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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