10月24日の礼拝の内容です。

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讃美歌は、394(1)483(1)です。本日午後2時から、教会研修会を行います。

礼拝説教       マタイ20:20~28「仕える者として」    2021.10.24

 新しい1週間が始まりました。1週間の初めの日曜日に、神を礼拝することができることを感謝します。神のみ言葉を受けとめ、それぞれがよい1週間を過すことができますように祈ります。また、先週の日曜日は、教会創立133周年の礼拝を守ることができましたことも感謝です。新たな思いを持って、教会の歩みを続けていきたいと思います。

今日の午後2時から、尾張瀬戸駅にあるパルテイ瀬戸の5階アリーナで教会研修会を持つことになっています。本来なら、金城学院高校のハンドベルクワイアのコンサートを計画していました。新型コロナウィルスのために中止となり、教会研修会となりました。余談ですが、半年前の24日に、パルテイ瀬戸の3階で、アリーナの会場使用のために、実は抽選となりました。抽選が当たり、開催できることになりました。逆に抽選に外れた方には申し訳ないなあと心の中では思っていました。また、金城学院高校の校長先生から直接、私に電話があり、コンサートの中止を告げてくださいました。きっと立場上、嫌なことを言わなければならなかったと思います。ここまでいろいろなことがあり、伝道委員会や長老会で話し合いながら、今回の企画となりました。新型コロナウィルスのために、人と人との距離のことを言われていました。教会の礼拝も三部に分けて、行っています。なかなか全体で集まることができない状態が続いています。今回の研修会で、少しでも教会員同志の交わりができればと願っています。

話がそれてすみませんでした。それでは、聖書の内容に入っていきます。イエス様は、弟子たちに対して三度に渡る受難予告をしました。これから、エルサレムに上って行くこと、イエス様は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されること、彼らは、イエス様に対して死刑の判決を下すこと、異邦人であるローマ人に引き渡され、イエス様は侮辱され、鞭を打たれ、十字架につけられて殺されること、そして、3日目に復活することです。

イエス様は自分の弟子たちに、三度に渡る受難予告を語ったのですが、弟子たちは、その意味を本当に理解することはできませんでした。弟子たちがエルサレムに行く目的は、自分たちを支配しているローマ人に対して、戦争を仕掛けることです。時は、エルサレムで過越祭を祝うことで、多くのイスラエルの人々が集まっていきます。過越祭は出エジプトを記念する祭りです。エジプトからの解放、奴隷からの解放です。それがローマ人からの解放ということにつながっていくと願っていました。イエス様をメシアとして中心にして、イスラエルの人々が一致して戦いが始まろうと考えていました。

そのエルサレム行きの中で、弟子たちは、イエス様の口から直接にそれも三度も、エルサレムに行った時に、十字架につけられて殺されるということを聞いた時に、不安や悲しみがありました。弟子たちにすれば、あってはならないことだったからです。それでも、弟子たちは、イエス様から離れなかったのはすごいと思います。弟子たちの本当の心の中は分かりませんが、逮捕されるまで、一緒にいたのです。

イエス様の三度目の受難予告があって、弟子たちの反応が、今日の聖書の内容です。受難予告からすぐに、この出来事は起ったのだと思います。ゼベダイの息子たちの母が、二人の息子たちと一緒に、イエス様のところにやって来ます。そして、ひれ伏して、何かを願おうとしています。イエス様の方から「何が望みか」と聞きます。すると母は言います。「イエス様、あなたが新しいイスラエル王国を立て、王になり王座にお着きになる時に、二人の息子を一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に座れるといってください」と。このゼベダイの息子たちは、ヤコブとヨハネです。12人の弟子たちの中で、ペトロとヤコブとヨハネは、最も大切にされている人たちです。イエス様は重要な場面では、この3人だけを同行させています。そして、ゼベダイの息子たちの母は、イエス様の母マリアと姉妹関係にあったと言われています。そうすると、イエス様とヤコブとヨハネはいとこの関係になります。

イエス様と親戚関係も近いし、弟子たちの中でも重要視されているから、前もって、自分たちの地位の確保をしていこうということです。この3人の行動は、非常に人間的な行動です。他の弟子たちよりも、よい地位を得たいということです。この後で、この3人の行動が他の弟子たちに知られることになります。すると、他の弟子たちは、腹を立てています。つまり、自分たちよりも先によい地位を得ようとしている、許されないということです。自分たちこそ、よい地位を得たいと思っているからです。考えていることは、すべての弟子たちは共通しています。果たして、私たちは、この弟子たちのことを批判することができるでしょうか。私たちの本音は、他の誰よりも、よい地位にいたいというのは同じだと思います。例えば、仲間と一緒にある学校を受験して、自分は落ちて、他の人が合格した時に、どういう気持ちになるでしょうか。他の人も落ちればよかったのにと思うかもしれません。

イエス様は、この話を受けて、弟子たち全員を集めていわれます。「あなたがたも知っているでしょう。異邦人の間では、支配者たちが民を支配し、偉い人が権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。わたしは仕えられるためではなく、仕えるために来たのです。また、多くの人の身代金として、自分の命を献げるために来たのです」と。ここでは、イエス様ご自身の役割のことがいわれています。十字架を目指す歩みです。

イザヤ53:3~5

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し

わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 イザヤが語っている苦難の僕が、イエス様ご自身です。イエス様のことを本当に理解していないヤコブとヨハネです。イエス様が「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と、いいます。すると二人は「できます」とすぐに答えています。この時に、イエス様は「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」と予言しています。この時には、確かに、イエス様のことを理解していないヤコブとヨハネですが、やがて、聖霊も受けて、イエス様の本格的な弟子となり、福音のために働いていくことになります。まず、ヤコブですが、使徒12:1~2「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」とあるように、弟子たちの中で最初の殉教者になっていきました。ヨハネですが、黙示録1:9「わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。」と、ありますように、約100才近くまで生きたといわれています。イエス様の福音のために、いろいろな苦難にあってきました。この黙示録の時は、パトモスという島に幽閉されていたのです。

 私は今、瀬戸永泉教会の牧師として、この礼拝の中で、説教を語るのが許されています。振り返れば,16才の時に、イエス様と出会い、今日まで歩むことができました。本当に奇跡です。ただただ、イエス様の憐みによって、導かれ、今日まで歩むことが許されてきました。感謝しかありません。弱く、罪多き私が、ここまで来ることができたことは神の導き以外にありません。瀬戸永泉教会、この礼拝にある皆様も同じです。人生の中で、いろいろなことが起ってきました。これからも起るでしょう。それでも、神は、私たちを愛し、守り導いてくださいます。私たちは、イエス様の十字架にすがって、これからも生きていくのです。神に仕える者として、喜んで、歩んでいきましょう。

祈り 神よ。あなたは、イエス様を通して、ヤコブとヨハネを伝道者として導いてくださいました。そして、ここにいる私たち1人1人をも愛し、守り、導いてくださいます。どうか、生涯が終り、あなたの御国に行くまで、信仰の道を歩ませてください。この願いと祈りを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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