5月21日の礼拝の内容です。

礼拝

5月21日の礼拝の内容です。讃美歌は、343.470.493.516.27です。

礼拝説教       使徒2:14~21「主の名を呼び求める者」    2023.5.21

 新しい1週間が始まりました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝したいと思います。神のみ言葉によって、私たち1人1人がよりよい1週間の歩みをすることができますようにと祈ります。

 約2週間でしょうか。1人の方の生きることと死ぬことを共に過ごさせていただきました。私たち1人1人は、それぞれ違う生き方があります。私たち1人1人は、それぞれ違う生き方、違う生活を送っています。そして、生きている者はやがて、死を迎える時がやって来ます。生きているということはやがて死ぬことなのだと思います。

まもなく1年になるでしょうか。私たちの教会では1人の兄弟を神のみもとに送りました。ある日の突然の病のために、寝たきりになり、最後まで、そのことが続きました。新型コロナウィルス感染症の前には、週に一度は病院を訪ねることができました。ベットの上で、その兄弟は、病のために体を自由に動かすことができませんでした。話すことも不自由で、意識はしっかりしており、考えはしっかりと思っているのに、その思いを相手に伝えることができないのです。何度かしかられたことがありました。でも、不自由な思いの中で、感情をぶつけたい思いは理解することができました。しかし、新型コロナウィルス感染症がひどくなってくると会うことができなくなりました。亡くなる少し前に家族と共にお会いすることができたことは、私自身とてもうれしいことでした。あの日は土曜日でした。突然家族の方から電話があり、亡くなったので、病院にすぐに来て欲しいということでした。すぐに病院に駆けつけ、本人がその苦しみから解放されたことを思いました。1人の人が死んでいく、そのことはとても大変なことです。

私は牧師として、多くの方の最後の時を過させていただき、葬儀を行って来ました。人の最後は、本当に1人1人違う最後です。同じということはありませんでした。話は最初に戻りますが、この2週間、毎日のように病院に行かせていただくことができました。まだまだ新型コロナウィルス感染症の影響がある中で、本当に幸いなことでした。人の人生の最後の時を、共に少しの時間ですが、過すことが許されて感謝しています。生きることは本当に大変なことであり、本当に苦しいことであると実感することができました。そして、死んでいくことも大変なことであると改めて思いました。生きることと死んでいくこと、1人1人違いますが、死ぬことは必ずやって来ます。私自身もいつかはその時が来ることを思っています。

病院を訪ねる中で、考えたことは復活の信仰のことです。私たちキリスト者は、イエス・キリストによる復活の信仰を持っています。それは、死んだ後でも、その先があるということです。生きている者は必ず死なねばらないのです。でも、それで終わりではありません。イエス様による復活の信仰が与えられています。いつか、イエス様が再臨されて、神の国が来て、私たちは復活して、永遠の命が与えられるということです。私たちは死んでも、神のみもとにあり、やがて復活の命が与えられる。この復活の希望を持っていることです。もし、この復活の希望がなければ、人の死といいますか、自分の死を含めて、どう受け止めていけばいいのだろうかと考えてしまいました。私たち信仰者は、どうして、このイエス様による復活の信仰を持つことができたのだろうと考えたのです。

今日の聖書の箇所は、イエス様の弟子たちに、神からの聖霊が下って、ペトロの最初の説教の部分です。思えば、新約聖書の中で最初に語られた説教だと思います。聖霊が弟子たちに下って、何が変わったのかといえば、1つは、逮捕されることを恐れて、部屋に閉じこもっていた弟子たちが、外に出て行ったことです。そして、一番大切なことは、イエス・キリストの十字架の救いの福音を理解することができたということです。先週触れたことですが、弟子たちは、イエス様が復活してお会いしても、その十字架の意味を理解することができず、イエス様が天に上げられる時に、「主よ、イスラエルの国を建て直してくださるのは、この時ですか」と質問しています。イエス様の復活後も、福音を理解することはできませんでした。

そして、聖霊が下って初めて、福音を理解することができたのです。ペトロが立ってエルサレムで、イスラエルの人々に向かって語っています。イエス様の弟子たちに聖霊が下った様子は、他の人々から見ると酒に酔っているように見えました。(使徒2:13)それを、ペトロは弁明して、「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たちに知って欲しいことがあります。今は、朝の9時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。これこそ預言者ヨエルを通していわれていたことなのです」と。そして、ヨエル書3章を引用しています。ヨエル書3章の内容は、終りの時に、神の霊がすべての人に注がれるということです。神の霊を受けた人々、あなたがたの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見るということです。

旧約聖書においては、すべての人々に聖霊が注がれることはありませんでした。特別の1部の人々に、神の霊が注がれたのです。私たちは良く知る人では、士師サムソンを上がることができるでしょう。サムソンは神から特別に選ばれた人として、特別の力が与えられていました。特別な力というのは怪力です。サムソンはその怪力で、活躍をしていきました。しかし、神の力がなくなった時は、その怪力を発揮することができなくなってしまいました。

それが、この使徒言行録2章の聖霊降臨日では、弟子たちに聖霊が注がれて、今やイエス・キリストの福音を理解することができているのです。

使徒2:23~24,36

このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。

だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。

 このペトロの説教にいっているように、イエス様の弟子たちは、聖霊がくだって初めて、イエス・キリストの十字架の死と復活の意味、人の罪の贖い、罪の赦し、神の国、永遠の命を理解することができるようにしてくださったのです。

 私たち1人1人はどうでしょうか。このイエス・キリストによる復活の信仰をしっかりと信じているでしょうか。よくわからないと人がいるかもしれません。でも大丈夫です。神が、この聖書において、その復活の希望を与えてくださっているのです。イエス・キリストが与えてくださった罪の赦しと、復活の希望、永遠の命、それは確実なことなのです。教会の歴史は2000年以上続いています。教会は、何を、この世に与えているのでしょうか。それは、このイエス・キリストの福音です。復活の希望です。そのことのみをのべ伝えているのです。

 この後から、1人の方の葬儀を行います。そこでは、1人の方を信仰に導いてくださった神への感謝と復活の希望が語れます。そして、私たち1人1人が、やがて来るであろう。人生の最後の時、いかに生きていくか、そして、いかに死んでいくのかを問われるのです。そこでは、復活の信仰を持って、受け止めていくのです。私たちは、人生の中で、いつも主の名を呼び求める者でありたいと願います。

祈り 神よ。このようにあなたを礼拝することができましたことを、心から感謝します。神のみ言葉から、聖霊の働き、復活の信仰を考えてきました。人の人生と死を考える時に、イエス・キリストの福音のみが、私たちの希望です。私たち1人1人が、この復活の希望、イエス・キリストの福音を確かなものとして受け止めて、歩んでいくことができますように守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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