6月15日の祈祷会の内容です。

祈祷会

祈祷会          民数記21:1~20「失敗から学ぶ」      2022.6.15

 エジプトで長い間、奴隷の状態だったイスラエルの人々、神の導きによって、エジプトを出て、荒れ野の旅を経て、約束の地を目指して歩んでいくのです。指導者モーセによって導かれての荒れ野の旅です。シナイの荒れ野で、神とイスラエルの人々は、契約を結びました。神の民としての契約です。律法が与えられ、幕屋が与えられ、祭司が設けられました。神の民としての歩みが進んでいきます。約束の地を前にして、イスラエルの人々は、入ることを拒否しました。その罪のために荒れ野の40年の放浪の時を過すことになりました。その40年が過ぎて、世代交代が終りました。次の世代によって、イスラエルの人々の新しい歩みが始まっていきます。

 民数記20章からは、その40年後の再出発です。この時にモーセにとってはとても辛いことが起りました。それは、兄弟であるミリアムとアロンの死を経験するからです。メリバの水事件では、モーセにとって神から厳しい裁きを受けることになりました。イスラエルの人々は、荒れ野で水などがないことで、モーセに対して不満を訴えました。「なぜ、こんな荒れ野に自分たちを導かれたのか、どうして、自分たちをエジプトから導き上らせて、こんなにひどい場所に連れて来たのか。ここには野菜も果物の飲む水さえもない」と。神はモーセに、目の前に岩を杖で打て、岩から水が出てくるから、それを人々と家畜に飲ませなさいといいました。モーセは人々に対して不満があったのでしょうか。岩を二度打って、水を出しました。それが、神からすればモーセの不信仰と見えたのでしょう。この行為によって、モーセは神から約束の地に入ることはできないといわれてしまうのです。

 そして、今日の民数記21章の前半の部分です。イスラエルの人々は放浪しながら、約束の地の近くまでやってきます。最初の道のりとは違い、死海を遠回りしながら、モアブの谷を通り、ピスガの頂まで行きます。ここはモーセがなくなる場所です。(申命記34章)

・1~3、カナン人に対する勝利

 聖書の後にあります聖書地図(2、出エジプトの道)を見ると、アラドとホルマが出てきます。ここでは、イスラエルの人々は、カナン人と戦うことになります。民数記14章では、約束の地に入ることを拒否した人々が、神の裁きの言葉を聞いて、カナン人と戦う場面が出てきます。その時には、神はイスラエルの人々と共にいませんでしたので、敗北しました。(民数記14:39~45)しかし、ここでは、神は共にいてくださるので、勝利することができました。かつての失敗があったので、勝利することができました。

・4~9、青銅の蛇

 イスラエルの人々は約束の地を目指して旅を続けていました。荒れ野ですから、また、人々は不満を口にするのです。何度も同じ過ちを犯してしまいます。人々は旅の途中で耐え切れなくなったのです。人々は神とモーセに逆らっていいます。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます」と。この時に、神は怒り、炎の蛇を人々に向かって送られました。蛇は人々をかみ、多くの死者が出ました。人々はモーセのところに来て「わたしたちは神とあなたを非難して、罪を犯しました。神に祈って、私たちから蛇を取り除いてください」と願うのです。ここでも失敗から学び、すぐに悔い改めるのです。モーセは、人々のために神に祈ります。神はモーセに「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」といわれました。モーセは青銅で1つの蛇を造り、旗竿の先に掲げました。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得ることができました。この青銅の蛇の話はとても有名です。人が蛇にかまれる。そのままでは死んでしまいますが、青銅の蛇を見上げると生きることができます。これは、青銅の蛇に力があるのではなく、神の言葉だから力があるのです。新約聖書の、イエス・キリストの十字架を重ねることができます。私たちが、イエス・キリストの十字架を仰ぎ見ることによって、罪は赦され、救われるのです。

 ただ、この青銅の蛇については、イスラエルの人々の間では長く、信仰の対象だったようです。南ユダ王国ヒゼキヤ王の時代です。王は、モーセが造った青銅の蛇を打ち砕いています。(列王記下18:4)

・10~20、モアブの谷までの旅

 イスラエルの人々は、ナボト、モアブの東側の荒れ野を行き、アルノン川を渡り、荒れ果てた地を見下ろすピスガの頂に進んで行きました。

 イスラエルの人々は荒れ野の旅の中で何度も同じ罪を犯してしまいます。荒れ野ですから、飲む水はない、食べ物のないという過酷な環境でもあります。エジプトで奴隷だった時には、生活は厳しかったでしょうが、衣食住には大きな苦難はなかったのでしょう。むしろ、豊かな生活を楽しんでいたのでしょう。それだから、荒れ野での生活は過酷なものだったと想像します。水がない、食べ物がない、どうしてこのような荒れ野に連れて来たのか、エジプトに帰りたいと、何度でもいってしまいます。それが、人間の現実でしょう。私たち自身の本当の姿を描いています。私たちもイスラエルの人々と同じように、何度も同じ罪を犯してしまうのです。でも、これらの失敗から、イスラエルの人々は学びます。神の民としての歩みです。それは、私たち自身の歩みでもあります。

祈り、神よ。イスラエルの人々の歩みを見ています。何度も同じ過ちを繰り返しています。それでも、悔い改めを学んでいる姿を見ることができました。私たちも、イスラエルの人々と同じです。罪を何でも犯してしまいます。イスラエルの人々は悔い改めること、神に立ち返ることを学んでいます。私たちの信仰の歩みでも、そのような歩みをすることができますように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

皆さまの祈り「                                  」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)

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