6月12日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は467(1)507(1)です。新しくなった礼拝堂で、礼拝を守っています。

礼拝説教      マタイ24:32~35「神の言葉は変わらない」    2022.6.12

 新しい1週間の歩みが始まりました。この1週間の初めの日曜日に神を礼拝することができますことを心から感謝します。神の言葉をいただいて、よりよい1週間の歩みをしていきたいと願います。先週の月曜日には、1年間お世話になった倉庫が加子母に帰っていきました。ずっとあったのに、いなくなってしまうと何か寂しい気持ちになりました。また、金曜日にはトイレがなくなりました。さようならという感じでした。教会堂が完成し、さあ、これからだと思いながら、何かしらの寂しさを感じています。また、新しい礼拝堂にも慣れていくようにしなければと考えています。

話がそれてすみません。さて、マタイによる福音書24~25章は、イエス様から、この世の終わりについての話がなされています。小黙示録ともいわれているものです。この世の終わりが来る。私たちの住み世界がいつか終える時がやってくるということです。私たちの将来は、私たちの未来はどのようになるのでしょうか。本当のところは分からないものです。未来のことがよく分かるということは、どういうことでしょうか。自分の未来、例えば、自分の死が詳細に分かるとしたら、それは、自分によって、どのような意味を持つのでしょうか。それは本当に自分にとって、幸せなことなのでしょうか。ずっと昔の話ですが、手塚治の漫画に「三つ目が通る」というものがありました。詳しいことは覚えていないのですが、主人公は自分の未来、自分の死について、はっきりと知ることができるというものでした。何年何月何日何時何分何秒という時間で、また、どのように死ぬかも分かるのです。自分の死がいつ来るか、分かることで、この主人公は非常に苦しむことになります。できれば、それを避けたいと努力をするのです。しかし、現実は、主人公の予想通りでした。自分の未来が、自分の死のことがはっきりと分かることが幸せなことにつながるとは限りません。知らないほうが幸せということもたくさんあると思います。

 私たちは自分の未来が分かるということは幸せなことでしょうか。とても難しい問題かもしれません。私自身とすれば、分かることと分からないことがあればいいなあと思います。先の漫画のように、自分の死は知らないほうがいいです。未来がわかること、それは未来に起こる内容によっては、分かったほうがいい場合もあります。

 今、教会学校では、夏の行事に向けて、「ヨセフ物語」を作っています。ヨセフ物語の内容は、エジプト王が2つの夢を見るのです。その夢は、未来に起こることが隠されているものでした。それをヨセフがエジプト王の夢を解くという話です。エジプト王の見た夢は、これからエジプトに7年間の大豊作が起こる、その後に7年間の大飢饉が起こるというのです。その大飢饉を乗り越えるために、大豊作の時に、穀物をたくさん備蓄し、飢饉に備えていくことで、危機を乗り越えていくのです。神の導きで、ヨセフ物語は進んでいくのですが、大飢饉なんか起らなければいいと思ってしまいますが、そういかないです。このように未来に起こる危機に対して、これから起こることが実際に分かれば、それに対する対応をすることができるということです。以前に東日本大震災が起った時に、よく想定外という言葉が使われました。考えていなかった、考えることができなかったということです。過去において、このような災害が起こったから、そのことを想定して考え対策していくということはあります。しかし、今まで起こったことのない大災害であれば、対応することはできません。

 今日の聖書の個所に入ります。イエス様は、この世の終わりのことを語っています。このマタイによる福音書の24章が意識している世の終わりについてですが、70年に起ったユダヤ戦争のことをいっているのではないという考えもあります。イスラエルの人々が、当時、世界を支配していたローマ帝国と戦うのです。イスラエルの人々は、ずっと苦難の歴史を歩んできました。イスラエルの人々が自分たちの国を持ったというのは、ほんのわずかです。それ以外は、外国人の支配をずっと受け続けていました。イエス様の時代は、ローマ帝国です。ローマ帝国は、この時代に、世界を支配していました。そのローマ帝国の支配によって、世界の人々はローマの平和を楽しんでいました。

 しかし、イスラエルの人々は、自分たちは神の民であり、ずっと外国人の支配を受けることはないとして、ローマ帝国に戦いをいどむのです。それが、ユダヤ戦争といわれるものです。長い戦いになりました。この戦いで、多くのイスラエルの人々が死に、あるいは捕虜になり、約束の地を失って、世界に散らされていくのです。この時から約2000年間、イスラエルの人々はまさしく放浪の民となってしまいました。長く苦しい時代を過ごすことになってしまうのです。イエス様が、ここで世の終わりというのは、当時のイスラエルの人々にとって、このユダヤ戦争を指していたと考えられます。でも、本当の世の終りは、この世界の終りです。私たちが住んでいるこの世界、それが終わる時が来るのです。神は、この世界を作り、そして、終えられるのです。それが、ここでイエス様が話されていることです。

 イエス様は、ここで、いちじくの木をたとえて使っています。いちじくの木から教えを学びなさいといわれます。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かるといいます。イエス様の生きた時代、このいちじくの木のことは、すべての人が分かっていたことなのでしょう。いちじくの木は、身近にあって、葉が成長し、葉が伸びてくるとああ、夏が近くのだなあという感じでしょう。自然の営みから、時期を考えるこということなのです。

 これからはキュウリが取れる季節になります。私は、教会の庭に、勝手に畑を作らせていただいています。すみません。初年後は、キュウリの苗を早く植えて、寒さで枯らせてしまいました。それから気温に注意して蒔くようになりました。少しずつ、収穫を楽しんでいます。身近な自然の動きで、今何をしなければならないかを判断するということですね。自然が、私たちのその時を教えてくれるのです。自然は多くのことを私たちに教えてくれます。時の流れというのでしょうか。時は流れていく、過ぎていきます。その時は、二度と戻ってくることはありません。繰り返すことがないのです。1年の歩みを、毎年繰り返しているような思いですが、実際は同じ年はありません。時の流れに身を委ねていくことしか、できないのです。

 先日、ある方の部屋の片づけのお手伝いをさせていただきました。冷蔵庫、洗濯機、テレビ、大きな机、大きな家具などを、いろいろ場所に持っていきました。片付けながら、今、自分たちが使っている物は、いつか捨てる時が来るのだなあと思いました。その時は、場合によっては、自分で片付けることができず、誰かにお願いすることになるのです。自分が、その片付けのお願いもすることもできないかもしれません。本当に目に見える物は、変わっていく。なくなってしまうのだなと感じました。自分自身も、いつかはこの世から去る時がやってくるのだなあと思ってしまいました。

 今日の聖書の個所で、大切なことは、35節「天地は滅びるが、わたしの言葉は滅びない。」というところです。私たちが住んでいるこの世界、私たちが見ている世界は、滅んでいくのです。なくなっていくのです。変わっていくのです。そのことを私たちは誰も止めることはできません。その流れを、見守るしかできないのです。その流れに流されて、すべては分からなくなってしまうかもしれません。この世界が終るということと私たちがいつか死を迎える時がやってくることをしっかりと受け止め、準備というか。心の備えをすることが大切だと思います。

 そして、「わたしの言葉は滅びない。」ということです。神の言葉、聖書の言葉は、まったく滅びないということです。神の言葉というのは、聖書の言葉です。私たちが持っている聖書、そこに書かれてある言葉は、滅びることはありません。それは、神からの私たち一人一人に対する愛のメッセージです。

ヨハネ3:16~17

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

 この神の愛のメッセージは、決して滅びることはないのです。私たちは、この日曜日の礼拝によって、神の言葉を聞くのです。私たちは変わっていきます。しかし、神は、その愛は、決して変わることがないのです。

祈り 神よ。このように、あなたを礼拝することができましたことを、心から感謝します。あなたの言葉を受け止めました。私たちは、見えるものに気を奪われてしまっています。また、目の前に起っている様々なことに心を奪われてしまいます。どうか、永遠に変わることのないあなたの言葉を、神の言葉として受け止め、希望と感謝を失うことなく、今もこれからもあなたに従って歩むことができるように守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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