3月6日の祈祷会の内容です。

祈祷会

祈祷会      ヨシュア記19:32~51「ヨシュアの嗣業の地」    2024.3.6

 ヨシュア記は、イスラエルの人々が神によって示された約束の土地を手に入れることと、その土地を各部族がくじ引きで分けて住むことが書かれてあります。19章の31節までで、すでに10部族が土地を手入れています。今日の19章32節以下は、ナフタリ族、ダン族が手に入れています。これでイスラエルの12部族のすべてが土地を手に入れたことになります。イスラエルの人々が境界線を定めて、土地の嗣業の配分を終えることができたのです。祭司エルアザル、ヨシュア、イスラエル諸部族の家長たちが、シロの幕屋の入り口で、主の前においてくじを引き、受け継いだ嗣業の土地がはっきりと示すことができました。土地の割り当てはこうして終ったのです。

 すべての土地の嗣業の配分が終った時に、イスラエルの人々は、自分たちの土地の中から、ヨシュアに嗣業の土地を贈っています。振り返ると、申命記の最後に、偉大な指導者であったモーセは死に、その後継者としてヨシュアが選ばれました。このヨシュアは、出エジプトの時からモーセと共に歩んで来ました。エジプトを出て、シナイ山で神がモーセを通して十戒を授けた時に、ふもとでイスラエルの人々は金の子牛の像を造って拝んでいた時に、ふもとにはヨシュアがいて、ヨシュアが民のどよめく声を聞いて、モーセに「宿営で戦いの声がします」と(出エジプト32:17)いっています。そして、約束の地を目の前にした時に、モーセは各部族から代表者を出して、約束の地を視察するように命じています。12人が選ばれています。その1人がヨシュアでした。イスラエルの人々にとって大切な時に、ヨシュアはモーセと共にいたのです。

 ヨシュア記に入って、イスラエルの人々は約束の地に入って行きます。約束の地に先住民がすでに住んでいました。先住民をすべて追い払って、この約束の地に、イスラエルの人々が住んでいくという話です。約束の地を手に入れることや、その土地をくじ引きで分けることなど、本当にいろいろな困難がありました。それでも、神の導きによって、ヨシュアは、その役割を終えることができたのです。ここまでの一番の功労者はヨシュアということになります。ヨシュアは、最初に自分の欲しい土地を手に入れたりはしませんでした。その役割上、そうすることもできましたが、決してしなかったのです。そして、すべての仕事が終った後で、イスラエルの人々から、ヨシュアのために嗣業の土地を、自分たちの土地の中から贈っています。

 聖書の流れを見ると、最初に、イスラエルの人々の方から、ヨシュアに今までの導きに感謝することと、自分の嗣業の土地を選んでくださいと申し出ているのです。そしてから、ヨシュアは、自分の方からエフライム山地の町ティムナト・セラが欲しいというので、贈ったのです。ヨシュアは町を建てて、そこに住むのです。ヨシュアの行為はとても小さいことですが、とても大切な内容が含まれています。リーダーは、自分のことは最後にするということです。

 ヨシュアの指導者としての歩みをみたことになります。モーセの場合はどうだったのだろうと振り返ってみると、申命記の34章に出てきます。モーセはイスラエルの人々を、出エジプトから荒れ野の旅、そして約束の地を目の前にする所まで導きました。モーセはモアブの平野からネボ山、エリコの向かいにあるピスガの山頂に登ります。神はモーセに約束の地をすべて見渡されるようにされました。ここで神はモーセに「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハムに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない」と告げています。モーセはモアブの地で死にました。でも、モーセが葬られた場所は知らないとなっています。最後に、申命記は、イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたからといっています。このようなモーセであっても葬られた墓はない、約束の地を見ることは許されたが、入ることは許されなかったということです。聖書では、人間が英雄視されることは許されないということなのでしょう。

 教会暦は今、受難節に入っています。イエス様の十字架への道を覚える時です。使徒パウロは、その手紙の中でイエス様の歩みを次のように書いています。

フィリピ2:6~8

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 ここには、神の子イエス・キリストのその生涯をまとめて書かれてあります。このイエス様の生涯には、私たちの罪のために十字架につくということがいわれています。神の用いられる者は、自分のことを誇ることはなく、神の御名をたたえていくことが求められています。

 そういう私たちは神のためにいろいろとしていると、知らないうちに神をほめたてているうちに、自分自身をほめたたえている場合があるのです。人の弱さを、聖書は知っているので、ヨシュアやモーセなどの歩みを通して、私たちにその弱さを伝えているのです。

祈り 神よ。聖書の学びと祈る時を与えてくださり、ありがとうございます。神を信じて歩むこと、それはどのような歩みなのかということを、ヨシュアやモーセのことを通して知ることができました。神をほめたたえること、自分のことを誇るのではなく、ただ神の御名をほめたたえることができる信仰を与えてください。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                               」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)

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