9月21日の祈祷会の内容です。

祈祷会

祈祷会      民数記31:25~54「聖戦と非戦の考え方」     2022.9.21

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)

 「平和」を考える時に2つの平和論があるといわれています。人権が守られている「積極的平和」と戦争がない状態の「消極的平和」です。「戦争と平和」の問題を「聖戦論」と「非戦論」という聖書の立場から見てみましょう。私たちは祈祷会で今、民数記を読んでいます。そこには聖戦論が出ています。神が偶像の神を裁かれること、イスラエルの人々が、偶像礼拝をしているミディアンの人々を滅ぼすということです。神の御名によって聖なる戦争として考えています。

 イスラエルの人々は、エジプトを出てから、荒れ野を40年間過ごして行きました。いよいよ目的地である約束の地カナンへ入ろうとしています。イスラエルの人々が約束の地に入るということは、約束の地に住んでいる先住民は偶像礼拝をしている人々で、神の御名によって、戦い滅ぼしていくということです。その先駆けとして、このミディアンの人々に対する戦いが書かれてあります。占い師バラムによって唆されてモアブの王バラムは、自分たちの娘たちと関係の深いミディアンの人々の娘たちを使って、イスラエルの人々を誘惑し、ぺオルのバアルを拝むようになりました。神の怒りによって、イスラエルの人々24000人が死んでしまいました。

そこで、民数記31章では、神がモーセを通して、イスラエルの人々にミディアン人に対して報復するように命じます。イスラエルから兵士12000人が選ばれて、ミディアン人に対する報復が始まります。男子はすべて殺されました。ミディアン人の5人の王、そしてバラムも剣で殺されてしまいました。女性と子どもは捕虜となり、家畜や財産と富など、すべてを奪い取り、町々や村々や宿営地に火をつけて焼き払いました。兵士たちが戦いに勝利し、たくさんの捕虜と分捕った物をたくさん持って、モーセや共同体の所に戻ります。すると、モーセは兵士たちに激しく怒り、神の怒りを受けた原因がミディアンの女性たちにあること、それを生きて捕虜として連れて来たことに対して、怒っているのです。モーセは、兵士たちに命じます。男の子と男子を知っている女性をすべて殺すようにと、男子を知らない女性を生かしておくようにいいます。そして、モーセの命令が実行されました。その後で、兵士たちの清めのことが書かれてあります。

今日の聖書の箇所は、25~48は、分捕り品の分配、49~54は、指揮官たちのささげもののことが書かれてあります。

・25~48、分捕り品の分配

神はモーセに分捕り品を数え、それを兵士とイスラエルの共同体全体に折半するように命じます。

兵士たちが分捕った物は、羊675000匹、牛72000頭、ろば61000頭、人(男を知らない女性)32000人です。兵士たちが受け取るのは、その半分です。羊337500匹、牛36000頭、ろば30500頭、人16000人です。そのうち500分の1を祭司にささげます。羊675匹、牛72頭、ろば61頭、人32人となります。イスラエルの共同体全体もその半分を受け取ります。そして、その50分の1を主の幕屋に仕えるレビ人に渡すことになります。

・49~54、指揮官たちのささげもの

 イスラエル兵士の指揮官である千人隊長、百人隊長はモーセの前に出ていいます。「部下の兵士の人員点呼をしました。1名を欠けていません。私たちはめいめいで手に入れた金の飾り物を贖いのささげものにしたい」と。何と、ミディアン人との戦いで、イスラエルの12000人の兵士は、1人の犠牲者も出さなかったというのです。その感謝として、神にささげたいというものでした。(私は正直、そのようなことがあるのだろうかと思いました。ミディアン人の犠牲が多いのにです。)金のささげものは、合計16750シュケルにもなります。しかし、他の兵士たちは、それぞれ略奪したものも自分のものにしています。

・イエス・キリストの非戦論

マタイ5:38~39

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

・マタイ5:43~44

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

・マタイ26:52

そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」

 これらのイエス様の言葉によって、新約聖書は、非戦論だと考えられています。イエス様の十字架は、その証でもあります。しかし、キリスト教の歴史を見ていますと、そうではない現実にぶつかってしまいます。教会は、いろいろな場面で戦争を繰り返ししてきました。神によって示された正しい戦い、聖戦として戦ってきたのです。そこには大きな罪があると思います。どのようにしたら、戦争をなくし、本当の平和を実現することができるのでしょうか。

祈り 神よ。祈りと聖書の学びをありがとうございます。戦争と平和について考えて来ました。旧約聖書にある聖戦の考えをどのように受け止めたらよいのでしょうか。大きな課題です。あなたが本来、私たち人間に臨んでいることは、神を愛し、人と人とが互いに愛し合うことだと思います。しかし、現実的な問題として、戦争が起り、今も戦いが継続されています。どうか、私たちが平和をつくる者となることができますように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                             」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)

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