11月2日の祈祷会の内容です。

祈祷会

祈祷会        民数記35:22~34「逃れの町のこと」     2022.11.2

 エジプトを出たイスラエルの人々は、40年間の荒れ野の旅を経て、今や、目指す約束の地カナンを目の前にする所までやってきました。ここで、約束の地に入るための準備をしています。約束の地カナンに入るということは、先住民と戦い、勝利し、追い出し、土地を分割することです。戦いのための準備として、12部族の20才以上の男子の数を数えました。兵士の数です。そして、土地をどのように分けるかを決めました。くじ引きによって分けるのです。レビ人は祭司としての働きを求められ、土地を与えられることはなかったのですが、住む場所を与えるように神は指示しています。レビ人は12部族の中に住む場所を与えられました。そして、レビ人の町の中に逃れの町を設けるようにいいます。

 逃れの町は、ヨルダン川東側に3か所、西側に3か所設けるようにいわれています。それは、罪を犯した者が1日中に逃げることができる場所にありました。罪を犯した者、それは殺人を犯した者です。殺人を犯した者は基本的に死刑になります。その殺人も故意にしたのか、偶然にしたのかが問われています。故意に、最初から殺すことを決めて殺したことです。その殺人を犯した者は、その罪がはっきりとすると死刑になることが決まっていました。また、殺された者の家族の者は、殺した者に復讐することも許されていました。血の復讐する者は、その殺害者に出会うときに殺すことができたのです。

しかし、故意ではなく、偶然に、敵意もなく、思わず人を突いてしまうか、人に何か投げつけるか、または、人を殺せるほどの石を、よく見もせずに人の上に落とすかして、人を死なせた場合、その人がその敵でもなく、危害を加えようとしたのでもない時には、イスラエルの人々は、逃れの町の規定に従って、殺した者と血の復讐する者との間を裁くことが求められています。それは、人を殺してしまった者が、血の復讐する者の手から救い出し、彼が逃げた逃れの町に帰すことが求められるのです。

人を殺した者に対して、故意か、それとも偶然かを見極めるために、複数の証人が求められていました。決して、証人が1人で決めることは許されていません。少なくても2人か3人の証言者によって、判断されることになります。故意であると認められた時には、当然に死刑が執行されます。偶然と、故意ではないと判断された時には、逃れの町に入ることができ、血の復讐者から逃げることができました。

故意ではない、偶然に殺してしまった時でも、罪の贖いが求められているのです。人を殺した者が、逃れの町に逃げることができました。その人は、逃れの町にいる場合には、血の復讐者の手から逃れることができますが、逃れの町を出ることは許されないのです。もし、出た場合、血の復讐者と出会って、殺されても、復讐者は罪を求められることはありません。その人が、逃れの町から出てしまったからです。逃げた者は、いつ自分の場所に戻ることができるかといえば、大祭司が死んだ時に、やっと罪が赦されて、自分の場所に戻ることができました。

大祭司の役割は、1年に一度の第7月の10日の贖罪日に、幕屋の中にある聖所の一番奥にある至聖所に入り、自分と家族のために罪の贖いをし、イスラエルの人々全体の罪の贖いをするのです。大祭司は罪の贖いのために大きな役割と責任を持っているのです。大祭司の死が、逃れの町に逃げた殺人者の罪の贖いになるというのです。繰り返しますが、故意ではなく、偶然に、人を殺してしまった者の場合です。

イスラエルの人々の罪の贖いですが、罪の贖いのためには、血を流すことになるのです。神は、イスラエルの人々に、あなたたちは自分たちが住む土地を汚してはならないといいます。血は土地を汚すといわれています。土地に流された血は、それを流した者の血によらなければ、贖うことができないといわれています。イスラエルの人々が住む土地、それは、神が、イスラエルの人々の中に宿っているといっています。

かつて、人類の最初の犯罪であるカインとアベルの事件を思い出します。創世記4章の内容です。兄のカインが弟アベルを殺してしまった事件です。神はカインに聞きます。「弟アベルはどこにいるのか」と。するとカインは「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」といいますと、神は「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」といいます。血は土地を汚すことはここから来ているのでしょうか。人間の最初の罪は、兄弟殺しであることは、とても悲しく、これからの人間の歩みを預言しているように感じます。

人間の罪が、大祭司の死によって贖われること、聖書に「血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです」(ヘブライ9:22)とあるように、やがて、私たちの大祭司であるイエス・キリストの十字架の血によって、私たちの罪の贖いが完成していくのです。イエス・キリストの十字架が、私たちにとって、とても大切な福音の内容となっています。

祈り 神よ。祈りと聖書の学びをありがとうございます。罪を犯すこと、それが意図的か、無意識化によらずに、罪が罪として裁かれることになるのです。罪の贖いのためには、血が流されねばならないのです。それが、私たちの救い主であるイエス・キリストの十字架の死です。十字架の上で流されたイエス様の血が、私たちの罪の贖いになっているのです。これによって、私たちの罪の贖い、罪の赦しが完成しているのです。イエス様の救いに深く感謝します。この感謝を、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                              」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)

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