祈祷会 ヨシュア記5章「エリコに入る準備」 2023.11.8
イスラエルの人々はヨルダン川を渡ることができました。契約の箱を担いだ祭司がまず入ると川の流れは止まり、乾いた地が現れて、その道を渡って行くことができました。すべての人々が渡り終り、川底から12の石を取って来て、ギリガルの地に記念として12の石を置いたのです。それは、神が強い御手を持って、イスラエルの人々をヨルダン川の流れを止めて渡らせたことを子どもたちに伝えるためでした。目指すべきエリコはすぐ目の前にあります。5章は、エリコの町に入る前の準備のことが書かれてあります。
・5:1~8、契約のしるし(割礼を受ける)
ヨルダン川の西側にいるアモリ人の王たちと沿岸地方にいるカナン人の王たちは皆、主がイスラエルの人々のためにヨルダン川の水を涸らして、彼らを渡らせたと聞いて、心が挫け、もはやイスラエルの人々に立ち向かおうとする者はいなかったと書いています。イスラエルの人々が約束の地に入っていくための準備を、神はこのような奇跡を用いて行っているのです。
この時、主はヨシュアに火打ち石の刃物を作り、もう一度イスラエルの人々に割礼を施すように命じます。ヨシュアは、自ら火打ち石の刃物を作って、ギブロト・アラロトでイスラエルの人々に割礼を施したのです。その理由は、イスラエルの人々がエジプトを出た後、途中の荒れ野で死んだのです。エジプトを出て来たすべての男子は割礼を受けていましたが、エジプトを出た後、途中の荒れ野で生まれた者はだれ一人も割礼を受けていませんでした。イスラエルの人々は荒れ野を40年間さ迷い歩き、その間に男子はすべて死に絶えてしまいました。彼らは主の御声に聞き従わなかったからです。約束の地を偵察に行って帰って来て、約束の地に入ることを拒否したことで、神の意志に従わなかったことになってしまいました。神は彼らに乳と蜜の流れる地を見せないと誓われたのです。
割礼を受けた意味がなくなってしまったということです。割礼を受けたから、もう神に従ったということにはならないのです。実際に、人々の行動と信仰が求められているのです。彼らの息子たちが、その間、割礼を受ける機会がなかったのでした。エリコの町に入って行こうとする前に、神の民として必要な割礼を受ける必要があったのです。ここではイスラエルの人々の男子が割礼を受けることは、神の民として歩むことのしるしになるのです。イスラエルの男子はすべて割礼を受けました。人々はその傷がいえるまで、宿営の自分の場所に留まりました。
・5:9~12、エリコの平野で過越し祭を祝う。
先の割礼を受けたことによって、主はヨシュアに「今日、あなたたちからエジプトでの恥辱を取り除いた」といいました。主はイスラエルの人々がエジプトで長い間奴隷だったこと、それが割礼を受けることによって、エジプトでの恥辱が取り除かれたと考えたのでしょう。その場所がギルガルと呼ばれるようになったといわれています。イスラエルの人々はギルガルに宿営していましたが、その月の14日の夕刻に、エリコの平野で過越し祭を祝ったのです。それまで、ずっと荒れ野で過越し祭を祝っていたのが、約束の地のエリコの平野で新たな思いで、過越し祭を祝ったのでしょう。出エジプトを忘れないために祝うのです。この過越し祭の翌日に、土地の産物を、酵母をいれないパンや入り麦にして食べています。イスラエルの人々が土地の産物を食べ始めたその日以来、マナは絶え、マナを食べる必要がなくなりました。人々は、その年にカナンの土地で取れた収穫物を食べたのです。荒れ野の旅は終り、約束の地での新しい歩みが始まっていくのです。
・5:13~15、主の軍の将軍が現れる。(主はイスラエルと共に戦ってくださる。)
ヨシュアがエリコの側にいたときのことです。ヨシュアが目を上げて見ると、前方に抜き身の剣を手にした1人の男がこちらに向かって立っていました。ヨシュアが歩み寄って「あなたは味方か、敵か」と問いかけると、彼は「いや。わたしは主の軍の将軍である。今、着いたところだ」と答えています。ヨシュアは地にひれ伏して拝し、彼に「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」というと、主の軍の将軍は「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる場所である」と答えています。ヨシュアはその通りにしました。この意味は、主の軍の将軍が現れるということは、主がイスラエルと共に戦ってくださるということです。イスラエルだけが戦うというのではなく、神も共に戦ってくださるのです。
今、ニュースでイスラエルとハマスの戦いのことが流れています。イスラエルがガザにいるパレスチナの人々を攻撃し、多くの死者が出ているのです。本当に悲しいことです。私はただ戦いが終ることだけを願っています。イスラエルの人々は、まもなくエリコを占領するために戦いに出て行きます。イスラエルの人々が約束の地に入ること、その意味を現在の私たちがどのように考えていけばいいのか、大きな悩みです。
創世記12:1~3
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」
特に3節の「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」の言葉を思います。イスラエルの人々が選ばれた理由は、すべての人々を神の救いの祝福に預かせるためでした。そのことをまず忘れないようにしたいと思います。
祈り 神よ。旧約聖書の学びを続けています。旧約聖書はイスラエルの人々を中心に書かれてあります。それでも、あなたの御心はすべての人々を救いに導くためであることです。そのことをしっかりと受け止めることができますように、そして、今の戦争をどうか1日にも早く終わらせてください。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
皆様の祈り「 」アーメン。
共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)
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