11月5日の礼拝の内容です。

礼拝

11月5日の礼拝の内容です。讃美歌は、57.194.385.575.27です。

礼拝説教       ヨハネ11:28~37「神さまの涙」     2023.11.5

 11月の第1の日曜日を迎えました。日本基督教団の教会暦では、聖徒の日(永眠者記念日)となっています。この日は、先に天に召された方々のことを覚えて礼拝を守ります。礼拝堂の周りにそれらの方々のお写真をかけてあります。また、ここにはおられない方もおられます。先に天に召された方々のことを覚えるということの意味を最初に考えていきたいと思います。先に天に召された方々は、それぞれの人生の歩みをされていました。もちろん1人1人違う人生です。その1人1人の人生を神が守り導いてくださったことを覚えるのです。神に感謝するのです。そして、ここにいる私たちもいつか天に召される時がやって来ます。その時を覚えて過ごしていくのです。それまで、私たち1人1人が神に守られていること導かれていることを知り、神への感謝、そして、神への信仰を持って歩むことを確認するのです。

 私たちにとって、先に天に召された方々との思い出はいろいろな場面を思い出すことができるでしょう。楽しかった時、うれしかった時、逆に、悲しかった時、苦しい時、本当にいろいろなことがあったと思います。ここにいる私たちの歩みはまだ続きます。これからもいろいろなことが起ってくるでしょう。どのようなことがあっても、神への導きと守りを信じて歩んでいきたいと願います。

 今日の聖書の箇所から、私は説教題を「神さまの涙」としました。神は泣かれる。そのようなことがあるかのだろうかと考えてしまうでしょう。神は全能であり、天地創造された方です。いえば完全なお方です。そのような方が泣かれる、涙を流されるということがあるのか、いや、ないだろうと思うでしょう。

「イエスは涙を流された。」(ヨハネ11:35)と聖書には、イエス様が涙を流されたと書かれてあります。イエス様は神の子ですが、神といってもいいのです。そうすると神は涙を流されたということになります。神は涙を流される方であることが分かります。

 さて、私たちが涙を流すことを考えてみたいと思います。涙を流すことは2つの意味があります。悲しい時とうれしい時です。悲しい時というのは、いろいろなことがありますが、例えば、今日は永眠者記念日ですので、愛する者が亡くなった時です。悲しくて泣いて、涙を流すのです。うれしい時に涙を流すことは、例えば、オリンピックの時に、本当に努力して、やっと念願の金メダルを取ることができた。そのような時に、涙を流すのです。うれしくてうれしくてです。

 さて、話をもとに戻したいと思います。神が涙を流されるお方だといいました。今日の聖書の箇所から、イエス様が涙を流されたのですが、どうして、涙を流されたのでしょうか。今日の聖書の箇所であるヨハネの11章は、ラザロの死を巡ることが書かれてあります。イエス様は時々、エルサレムに行かれました。その時に、宿泊先として、エルサレムの近くにあるべタニアの村のマルタとマリアの姉妹と兄弟ラザロの家を選びました。イエス様にとって、深い関係にあったこの家に泊まることは楽しみだったのかもしれません。イエス様はべタニアの近くにいたのでしょう。ある日、ラザロが重い病気になってしまいました。マルタとマリアは人をやって、イエス様に「主よ、あなたの愛する者が病気なのです」といわせました。この時に、イエス様は2日間、同じ場所にいたのです。すぐにはべタニアには行きませんでした。

 ラザロの病気を聞いてから2日後に出発されたのです。ラザロは死んでしまいました。それも死後、4日も経ってしまったのです。イエス様がべタニアに来られたことはすぐにマルタとマリアの耳に入りました。マルタは行動的な人で、すぐにイエス様のいる場所に行きました。そして、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と訴えています。

 そして、今日の聖書の箇所です。マルタはイエス様とやり取りを終えて、自分の家に戻って行きました。イエス様は同じ場所にいました。家に戻ったマルタは妹のマリアに「先生がいらして、あなたをお呼びです。」と耳打ちしました。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がって、イエス様のもとに行くのです。マリアはイエス様を見るなり、足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」といいました。マルタと同じ言葉を、イエス様にいっています。イエス様は、マリアが泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮していわれます。「どこに葬ったのか」と。彼らは「主よ、来て御覧ください」といいます。すると、イエス様が涙を流されたのです。イエス様は、マリアが泣き、一緒にいたユダヤ人も泣いているのを見て、非常に心に憤りを覚えて、興奮されています。そして、イエス様は涙を流されています。どのような思いが、心に憤りと興奮と涙を流されることになっていったのでしょうか。

マリアが泣いている原因は、兄弟のラザロが死んでしまったことです。一緒にいたユダヤ人たちも泣いているのは、マリアの悲しみを見て、一緒に泣いているのです。原因はラザロの死ということです。イエス様が涙を流されたのは、ラザロの死によって、マルタとマリアの悲しみを見てです。愛する者に死によって、イエス様は涙を流されているのです。

フィリピ2:6~8

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 聖書は、イエス様のことを神の身分でありながら、人間と同じ者になられましたと書いてあります。イエス様はラザロの死によって悲しんでいるマルタとマリアに同情しているのではありません。人間として同じ悲しみを体験されているのです。それが、イエス様の涙を流すことにつながっています。イエス様は人間の死について、涙を流されています。それは、人間の罪と死に対して、涙を流されていることです。

 イエス様は、ラザロの死に対して、涙を流されているだけでしょうか。今日の聖書の箇所の後を見ると、イエス様は死んで4日経ったラザロの墓に行きます。イエス様は「墓の石を取りのけなさい」といわれます。マルタは「主よ、四日も経っていますから、もうにおいます」といっています。人々が石を取りのけると天を仰いで、神に祈ります。祈ってから「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれています。すると、死んでいたラザロが、手と足を布で巻かれたまま出て来たのです。顔は覆いで包まれていました。イエス様は人々に「ほどいてやって、行かせなさい」といわれるのです。死んで4日経ったラザロを、イエス様はよみがえらせました。

 イエス様はマルタにいっています。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25~26)と。この後で、イエス様は十字架におつきなられます。十字架につけられて殺されて墓に葬られます。そして、3日後に、よみがえられます。復活されました。このイエス・キリストの十字架と復活が次につながっていくのです。

ヨハネ3:16~17

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

 この聖書の言葉によって、私たちに本当の救いが与えられています。イエス・キリストの十字架の死と復活を信じることによって、私たち自身と先に天に召された方々に、死からの復活、神の国への招き、永遠の命を与えてくださるというものです。私たちは、今日、イエス・キリストへの希望を新たに持ちたいと思います。神さまの涙が、イエス・キリストによる救いへとつながっているのです。

祈り 神よ。今日は、聖徒の日(永眠者記念日)の礼拝を共に守ることができましたことを心から感謝します。ご家族の方々と共に、あなたを礼拝することができました。あなたは、先に天に召された方々1人1人を守り支え導いてくださいました。感謝します。私たちも、これらの信仰の先輩方の歩みに支えられて、あなたを信じて歩んで行くことができますようにお守りください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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