11月29日の祈祷会の内容です。

祈祷会

祈祷会      ヨシュア記8章「失敗から学ぶこと」   2023.11.29

 ヨシュア記は、イスラエルの人々が神から与えられた約束の土地に入ることと土地の分割することが書かれてあります。神がアブラハム、イサク、ヤコブに対して契約を結んでくださいました。神の民としての契約です。神はイスラエルの人々の神となり、イスラエルの人々は神の民となるということです。契約の1つに約束の土地を与えるというものがありました。エジプトで長い間奴隷としての歩みをしていたイスラエルの人々、それを神は指導者モーセを遣わし、奴隷からの解放、出エジプトを成し遂げてくださいました。エジプトを出た人々は荒れ野の旅を40年間しなければなりませんでした。そして、旅も終りを迎えることになりました。ここでモーセは死に、新しい指導者としてヨシュアが神によって選ばれました。ヨシュアによって、イスラエルの人々は約束の地の占領と土地の分割をしていくのです。

ヨシュア記に入って、イスラエルの人々は神の力によって、ヨルダン川を渡り、エリコの町を占領することができました。神の力なしでは、成し遂げることができないことを人々は経験したはずでした。エリコの攻撃の時に、神の命令を破って、神にささげるべきものを捧げずに、アカンは自分のものとしてしまいました。そのアカンの罪によって、次のアイの町の攻撃が失敗するのです。でも、その失敗の大きな理由は、神の力を必要とせずに、自分たちの力で、アイの町を落とせると考えたからでした。イスラエルの人々はアイの町を簡単に自分たちの力だけで落とすことができると思ったのです。ここに人の弱さがあります。人の罪があります。弱さとは罪とは、自分が神になることです。神を必要としないことです。

 アイの町の攻撃の失敗に、ヨシュアを始めイスラエルの人々は深い悲しみに陥りました。ヨシュアは「神よ、どうしてあなたはわが民にヨルダン川を渡らせたのですか。私たちをアモリ人の手に渡して滅ぼすつもりだったのですか。私たちはヨルダン川を向こう側に留まることで満足していたのです」とまでいっているのです。しかし、神はヨシュアに「立ちなさい。なぜ、そのようにひれ伏しているのか」といい、立ち上がって歩むように促します。アカンの罪を裁き、イスラエルの中にあった罪を取り除くことによって、再びアイの町の攻撃がなされていくのです。それが、ヨシュア記8章の内容になります。

 ヨシュアは神の命令に従っていきます。神はヨシュアに「恐れてはならない。おののいてはならない」といって励します。神はヨシュアに「全軍隊を引き連れてアイに攻め上りなさい」と命じます。そして、ヨシュアは全部隊を率いて行動を起し、アイに攻め上ります。全力でイスラエルの人々はアイの町の攻撃に参与していくのです。ここで神はヨシュアを通して、攻撃の作戦を指示しています。まずアイの町の後方に3万の兵士を配置します。ヨシュアとその全軍は正面からアイの町に攻め入るように見せかけます。すると、アイの町の兵士たちは、前にイスラエルの人々を敗退させた経験があるものですから、簡単に、全軍でイスラエル軍と相対するようにアイの町から出て行きます。まさか、後方にイスラエル軍がいるとは考えも及んでいませんでした。戦いになる前に、イスラエル軍は敗走したように見せます。すると、アイの軍隊はそのままイスラエル軍を追って行きます。アイの町は1人の兵士もいないことになります。アイの町の門は開いたままでした。神の命令によって、ヨシュアは投げ槍をアイに向かって差し伸べます。

 アイの町の後方にいた伏兵たちはアイの町に攻め込んで占領し、直ちに火を放ちます。アイの兵士が振り返ると、町の煙は天に達していて、荒れ野に逃げた軍勢も追っ手に対して向き直って攻撃して行きました。アイの兵士たちはイスラエル軍の挟み撃ちにあって滅んでしまいました。ただ、神の許しがあって、アイの町の家畜と分捕り品は自分たちのものにすることができました。

 アイの町の攻撃が成功して、ヨシュアは、すぐにエバル山に神のために祭壇を築きました。これは申命記27:1~8に書かれてあるものです。ヨルダン川を渡り、約束の地に入ったならば、エバル山に石の祭壇をつくるようにというものです。鉄の道具をあてず、自然のままの石です。その祭壇の上に焼き尽くすささげもの、和解のささげものをささげるように命じています。申命記28章には、神からの祝福と呪いの言葉が書かれてあります。イスラエルの人々は、半分ずつエバル山とゲリジム山の前に立ちました。ここで、ヨシュアは律法の言葉、祝福と呪いをことごとく、すべての律法の書に記されている通りに読み上げます。

 このヨシュアとイスラエルの人々の行動を見ていると、自分たちと変わらないと私は思うのです。私たちは人生の中で困難にある時に、神を求めます。神の救いを願います。神の救いにすがります。しかし、その人生の困難が終って、平安の中にあり、人生の歩みが順調である時に、私たちは、本気で神を求めているでしょうか。神に祈っているでしょうか。すべてがうまくいっている時は、神への感謝も祈りも忘れて、それが自分の力であるかのように錯覚してしまうのです。神に従う必要はない。神に頼る必要はない。自分たちの力だけでもう十分だと思い込んでしまうところがあります。しかし、また人生の困難に遭遇した時に、神に頼るのです。神に祈るのです。神に救いを求めていくのです。聖書を読んでいると神はイスラエルの人々の本当の姿、私たちの本当の姿を知っていて、それも受け入れてくださっていると感じます。

祈り 神よ。聖書の学びと祈りとの時を与えてくださり、ありがとうございます。ヨシュアとイスラエルの人々の歩みを見てきました。目の前に大きい困難がある時には、神の力を求めます。しかし、困難が去り、自分たちの力で歩むことができると感じると、神の力を求めません。神に頼ることもしません。神には必要ない。神に従うこともない。自分たちですべてのことをなすことができるとします。ここに人の弱さと罪があることを知りました。私たち自身もそのようなことがあることを知っています。どうか、どのような時も、あなたを求めて、あなたに従っていくことを喜びとすることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                           」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)

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