5月19日の祈祷会の内容です。

祈祷会

祈祷会     レビ記3章「和解の献げ物」-交わりの食事-  2021.5.19

 神はイスラエルの人々と契約を結びました。神はイスラエルの神となり、イスラエルは神の民となりました。神はイスラエルの人々と出会うめに、幕屋を造るように命じ、そこで出会うとしてくださいました。また、幕屋で働く祭司もおかれたのです。このレビ記において神は、モーセを通して、イスラエルの人々に神の民として歩むことの基本的なことを語っています。ですから、神から一方的にモーセを通して、イスラエルの人々に語る内容になっています。

 レビ記の前半は、犠牲をささげることによって神に近づくことが書かれてあります。後半は犠牲をささげて聖別された人々が、神と共に歩む内容が書かれてあります。神とイスラエルの人々が出会う、それは、聖なる神に罪あるイスラエルの人々が出会うことを意味します。そのために犠牲のささげものが必要になってきます。焼き尽くすささげもの、穀物のささげもの、そして、今日が和解のささげものとなっています。和解とはどのような意味があるのでしょうか。神とイスラエルの人々は、特に金の子牛の像を拝んだことによって、交わりを保つことができませんでした。一時的に神は人々と一緒に行かないと言いました。それが、この和解によって、一緒に行ってくださるようになったのです。和解のために、犠牲のささげものが必要でした。それがささげられて、神とイスラエルの人々は和解をすることができるようになりました。

 イスラエルの人々の和解のささげものですが、牛、羊、ヤギがささげされます。ささげる人はささげる動物を幕屋に持ってきます。ささげる動物の頭に手をおき、祈りをささげた後、ささげられます。脂肪は祭壇で焼かれ、祭司に胸と右モモが与えられ、残りのものはささげたものと家族のものになります。(レビ記7:31~32)

 そもそもどうして、神との交わりが人には必要なのでしょうか。それは、私たちを創造された方からです。この天地を創造された方だからです。イザヤ書に次のような話が書いてあります。

イザヤ37:18~20

主よ、確かにアッシリアの王たちはすべての王国とその国土を荒らし、その神々を火に投げ込みましたが、それらは神ではなく、木や石であって、人間が手で造ったものにすぎません。彼らはこれを滅ぼしてしまいました。わたしたちの神、主よ、どうか今、わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主であることを知るに至らせてください。」

イザヤ37:36~38

主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で十八万五千人を撃った。朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた。アッシリアの王センナケリブは、そこをたって帰って行き、ニネベに落ち着いた。 彼が自分の神ニスロクの神殿で礼拝しているときに、二人の息子アドラメレクとサルエツェルが彼を剣にかけて殺した。彼らはアララトの地に逃亡し、センナケリブに代わってその子エサル・ハドンが王となった。

 やがて、イスラエルの人々が約束の地に住み、ダビデ王によってイスラエル王国がつくられました。しかし、ソロモン王の死後に、国は南北に分裂してしまいます。北の国はアッシリアによって滅ぼされてしまいます。アッシリアは南に攻めてきます。アッシリアの王が南の国の人々に降伏するように言います。アッシリアの王は自分が神かのようにふるまっています。しかし、アッシリアは神によって敗北するのです。本当の神は何かと言うことです。

 人が創造の神と交わることができるのです。和解のささげものは、神へのささげるもの、祭司にささげるもの、そして自分たちのものとなっています。特に、食事をすることができるのです。幕屋で、食事するのです。神と人々が食事を通して交わりを持っているのです。

1コリント11:26

だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

私たちは礼拝の中で聖餐式を守っています。(今は、できませんが)イエス・キリストの十字架の意味を確認し、パンとブドウ酒にあずかります。レビ記の和解のささげものは、私たちの聖餐式につながっています。感謝なことです。

祈り 神よ、祈りの時を持つことができますことを感謝します。神と人の和解のささげものについて学びました。まず、神へのささげものがあり、神と人の食事の時があります。神と人との交わりの食事です。これが聖餐式につながっていることを知りました。イエス・キリストの十字架があって、聖餐にあずかることができるのです。神と人との交わりがそこにはあります。感謝です。この感謝を、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                 」アーメン、

祈りを共にしてくださり、感謝します。(横山厚志)

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