3月20日の祈祷会の内容です。

祈祷会

祈祷会     ヨシュア記21:1〜19「レビ人の町~万人祭司を考える」  2024.3.20

 ヨシュア記19章の最後で、イスラエルの人々の土地の嗣業の分配が終りました。そして、イスラエルの人々は自分たちの土地の中からヨシュアに嗣業の土地を贈ったのです。そして、ヨシュア記20章で、逃れの町を6つ制定することができました。逃れの町とは、意図としてではなく、過って人を殺した者がそこに逃げ込めば、血の復讐する者から逃れる場所のことです。ヨルダン川西側では、ケデシュ、シケム、ヘブロンです。ヨルダン川東側では、ベツェル、ギレアドのアモト、ゴランです。そして、ヨシュア記21章では、レビ人の町のことが書かれてあります。

 レビ人の家長たちがシロにいる祭司エルアザル、ヨシュア、部族の家長たちのもとに来て、「主は、わたしたちに住む町と家畜の放牧地を与えるように、モーセを通してお命じになりました」と申し出たのです。イスラエルの人々は、主の命令に従って、自分たちの嗣業の土地から町々とその放牧地をレビ人に与えていくのです。モーセを通してお命じになっていたということですが、それは民数記35:1~8に書かれてあります。ここにはレビ人の町の大きさがありますが、小さいものです。また、逃れの町が6つと、レビ人に与える町は48となっています。

このレビ族には大きく分けて、3つの部族がありました。ゲルション族、ケハト族、メラリ族です。これは彼らの父レビの3人の子どもの名前です。長男がゲルションであり、次男がケハト、そして3男がメラリでした。これらの3つの氏族に対する領地の分割を見ていくと、6節にゲルション族は13の町を与えられ、ケハト族には23の町が(4~5)、そしてメラリ族には12の町が与えられました(7)。ところで、レビの長男はゲルションなのに、このゲルションよりも次男のケハト族の方が先に、しかも多くの領地が与えられていることに気づきます。ゲルションが13の町、メラリ族には12の町しか与えられなかったのに、ケハト族には23もの町が与えられているのです。いったいどうしてケハト族の方が多いのでしょうか。その理由は、ケハト族は祭司アロンの子孫にあたるからです。

 民数記3~4章には、レビ人の働きのことが書かれてあります。この内容を知っておくことはとても大切なことです。アロンの子孫は、幕屋の中で実際に、動物のいけにえをほふり、それを祭壇で燃やし、また聖所の中に入って、パンを供えたり、燭台の油を付けたし、金の香壇に香を盛るなど、実際の礼拝を行います。その他のレビ人は、これらアロンの子孫であり祭司である人々を助ける働きをします。ケハテ族は、至聖所の中にある契約の箱を運び出し、供えのパンの机や金の燭代など、とてもきよい用具を運搬するのです。次に、ゲシュルン族は、幕屋の幕を取り外し、運搬するのです。そしてメラリ族は、幕屋の板や台座、釘やひもなどを運搬します。このように、アロンの子孫から、ケハテ族、ゲシション族、メラリ族の順番で、より重要な奉仕に携わっているのです。

 更に祭司アロンの子孫であるレビ人は、ユダ族、シメオン族、ベニヤミン族からくじで町を得ています。その他のケハトの人々は、エフライム族、ダン族、マナセの半部族からくじで町を得ています。ゲルション族は、イサカル族、アシュル族、ナフタリ族、バシャン地方に住むマナセの半部族からくじで土地を得ています。メラリ族は、ルベン族、ガド族、ゼブルン族からくじで土地を得ています。何か中心地から離れていくように感じてしまいます。それでも、12部族の町々の中にレビ人の町とその放牧地があるということは、神への礼拝がどこにでも、どの部族でも同じようにすることができることを意味していると思います。旧約聖書における祭司の役割はとても重要なものです。それは幕屋や神殿で、神とイスラエルの人々をつなぐ役割を与えられているからです。

 さて、話は大きく変りますが、私たちの教会はプロテスタント教会に属しています。カトリック教会に対抗してプロテスタント(対抗するという意味)教会といいます。プロテスタント教会にはカトリック教会に対抗して、3つの法則がありました。聖書のみ、信仰のみ、万人祭司というものです。特に、万人祭司とは、すべてのキリスト教信者は、イエス・キリストの祭司職に参加するというものです。神と人間との間には、超えることができない大きな断絶があると考えられています。罪深い人間は聖なる神に近づくことができないのです。祈りやささげものを直接ささげることができないのです。旧約聖書では、神とイスラエルの人々が特別な契約を結びました。それから人間は神に近づくことができるようになりましたが、イスラエルの人々の中で、祭司が選ばれて、その役割を果たすのです。

 キリスト教では、唯一の大祭司であるイエス・キリストが十字架での死と復活によって、それもたった1回限りで、十分なささげものとなってくださったので、それ以来、人間的な祭司はいらないということになっていくのです。すべてのキリスト者は、イエス・キリストにおいて、誰でも、直接に神に近づくことができるようになったのです。すべてのキリスト者は、イエス・キリストにおいて、すべてが祭司であると考えられるのです。カトリック教会では、聖職者などの司祭階級が固定化してきました。16世紀に起った宗教改革は、このことへの深刻な反省の中で起ってきたもので、洗礼によってキリスト者は、神の祭司の役割をするものだというのです。そういう日本基督教団の教会でも、牧師、長老、役員などの役割があり、このことを万人祭司論と比較して、どのように考えていくかは大きな課題があると思います。

祈り 神よ。聖書の学びと祈る時を与えてくださり、ありがとうございます。レビ人の町と放牧地についてみてきました。特に祭司という重要な務めを与えられています。また、プロテスタント教会の万人祭司について考えてみました。この考えによって、私たちは直接に神に祈ることができるようになりました。そのことをしっかりと受け止めることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                              」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)

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