祈祷会 レビ記25:29~55「約束の地に入ってから」 2021.11.10
レビ記25章には、7年目の安息の年のこと、50年目のヨベルの年のことが書かれてあります。イスラエルの人々が約束の地に入ってから、どのような生活をすべきなのかが書かれてあります。人々は、まず6年間は畑に種を蒔き、収穫することができます。7年目は、安息の年として、人々と土地の安息の時として過ごすことが求められています。7年の7倍、つまり49年の第7月10日の贖罪日から、ヨベルの年に入っていきます。この年は角笛が吹き鳴らされ、全住民に解放の宣言がなされます。奴隷は解放され、売った土地も返却される解放の時です。今日は、レビ記25章の後半の部分になります。
レビ記25:29~34、家屋の買戻し
城壁に囲まれた町の中の家屋を売った場合ですが、1年の終りまで、買い戻す権利を持っています。それができなければ、買い戻すことができなくなってしまいます。それを買った人とその子孫のものになります。ヨベルの年になっても手放す必要はありません。その理由として、町は神の作品ではないので、ヨベルの年は適応されません。城壁に囲まれていない村の家屋は畑地と見なされるので、買い戻す権利が続き、ヨベルの年には手放すことになります。
また、レビ人の所有する町の家屋ですが、いつも買い戻す権利を保有します。レビ人の町の家屋は彼らの所有物であり、牧草地もそうであり、永久の所有地になります。
レビ記25:35~38、貧しい人への融資
同胞が貧しく、自分で生計を立てられない場合、人々はその人を助け、共に生活できるようにすることが求められています。利子も利息も取ってはならないのです。人々は、神を畏れ、同胞が共に生きられるように、お金や食糧を貸します。この時も利子や利息を取ってはなりません。その理由として、神が自分たちの神であること、神はカナンの地をイスラエルの人々に与えて、イスラエルの人々の神となるために、エジプトの国から導き出したからです。
レビ記25:39~55、イスラエルの人々の奴隷について
・36~46、同胞が主人の場合
同胞が貧しく身売りをした場合、奴隷として働かせてはならないのです。雇人か滞在者として共に住ませることになります。ヨベルの年まで働かせます。ヨベルの年には解放されます。神は、「エジプトの国からわたしが導き出した者は皆、わたしの奴隷である。だから、仲間内では奴隷として売ってはならない」と語ります。周辺の国々から得た者であれば、男女の奴隷とすることはできました。ずっと奴隷であることも可能でした。(イスラエルの人々と外国人では、差別があります。)
・47~55、外国人が主人の場合
寄留者や滞在者が豊かになり、同胞が貧しくなって、身売りをした場合、(このことはイスラエルの人々にとって最悪に貧しいことになります。)買い戻す権利を有することになります。その人は自分を買い取る人と共に、自分が買われた年から、ヨベルの年を数え、その年数によって、自分の価を決めます。外国人も神の掟に従うことになるのです。働くはずの期間の労賃は、日雇い労賃の率で算定します。ヨベルの年が基準になります。その人を買い取った者は、年々雇用される雇人並みに扱い、その人を過酷に踏みにじってはならないのです。ヨベルの年には解放され、自由になることができます。神は「イスラエルの人々はわたしの奴隷であり、彼らはわたしの奴隷であって、エジプトの国からわたしが導き出した者だからである。わたしはあなたたちの神、主である」と、繰り返し語ります。
贖いという言葉があります。この贖いの意味は、人々を奴隷から解放することを意味しています。イスラエルの人々はエジプト人の奴隷でした。それを神が解放し、ご自身の奴隷としたというものです。私たちですが、私たちは罪の奴隷でした。それを神は、イエス・キリストの十字架によって、罪から解放し、神の奴隷としてくださったのです。このように神の救いは、イスラエルの人々から始まり、すべての人々に及んでいきます。
祈り 神さま、祈る時を与えてくださり、ありがとうございます。神は、ご自身から離れて行った人間をもう一度、ご自身の元へと導いてくださいます。そして、すべての人々の救いになっていきます。もともと人間は神と共にありました。それを人間が罪を犯したために、神から離れて行ってしまったのです。それを神は悲しみ、深い愛を持って、ご自身の元へと導いてくださったのです。感謝なことです。この感謝を、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。
皆様の祈り「 」アーメン。
共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)
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