11月14日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、451(1)504(1)です。礼拝の中で聖餐式を行います。

礼拝説教      マタイ20:29~34「何をしてほしいのか」     2021.11.14

 新しい1週間が始まりました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができることを感謝します。この1週間も神の言葉を受けて、感謝に満ちた時となりますように、願います。マタイ21章の初めには、イエス様のエルサレム入場のことが書かれてあります。今日の聖書の箇所は、その前の出来事が書かれてあるのです。イエス様一行がエリコを出ると、大勢の群衆がイエス様に従ったとなっています。イエス様の目の前には、エルサレムがあり、十字架はまもなくです。この時から1週間以内には、イエス様は十字架につけられます。そのような時に起った奇跡物語です。

 時は過越しの祭りを祝うために、多くの地域から多くのイスラエルの人々がエルサレムにやってきます。過越し祭は出エジプトを記念する祭り、奴隷からの解放を祝う祭りです。この時代、イスラエルの人々はローマ人の支配を受けていましたので、ローマ人からの解放を願って、エルサレムに入ってきました。いつも以上に、人々は興奮していたと考えられます。イエス様を中心に、ローマ人と戦う時が近づいていると感じていたのです。そのような特別の感情があり、今日の出来事は起ってきます。

 この時に、二人の盲人が道端に座っていました。目が見えない、そのような状態で生きるということは、当時の社会では、道端に座って、人々の憐みをいただいて生きるしか道がなかったと考えられます。目が見えないで生きるということは、厳しい状況の中で生きることを意味していたと思います。この二人の盲人は、イエス様が通られると人々の騒ぎを聞いて、「主よ、ダビデの子よ。わたしたちを憐れんでください」と叫ぶのです。話すのではなく、叫ぶのです。大勢の人々がいる中で、この二人の盲人は、自分たちの声が、イエス様に届くように、全部の力を使って、大声で叫びます。叫び続けます。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と。

 この二人の盲人が、イエス様に求めていることは、「憐れみ」です。「目が見えるようにしてください」では、ありません。「わたしたちを憐れんでください」と叫んでいます。盲人たちの、イエス様に対する願いは、イエス様からの憐れみということになります。目が見えないということは、当時、罪を犯した結果、目が見えなくなると考えられていました。目が見えないことにより、生活の不便さ、社会的な差別、宗教的な差別、普通に生きることが許されなかった人生、いろいろな苦しみや悲しみ、そのすべての重荷を背負って生きている、その重荷からの解放を願っていたのでしょう。私たちの苦しみをどうか、知り、受け止め、あなたの憐みを与え欲しいという強い願いが、ここにはあったのです。

 この二人の盲人の声を黙らせようとする人々がいました。イエス様と一緒にエルサレムに行こうとしている群衆です。群衆の思いは、イエス様を中心にローマ人と戦うことにしかなかったのかもしれません。その中にイエス様の弟子たちもいました。少し前に、自分たちの子どもの頭に、手を置いて欲しいと願った親たちがいました。それを弟子たちは、その親たちを叱っています。これから戦いが始まるんだ。子どもを祝福する、今はその時ではない、邪魔だから、あっちに行けといっているのです。それでも、この二人の盲人は負けませんでした。更に大きな声を出して、イエス様に届くように「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫び続けます。

 この二人の盲人の声は、イエス様に届きます。もし、この時に、盲人たちが大声を出して、叫ばなかったら、イエス様の癒しは起っていないのです。この二人の盲人の熱心な叫び声が、イエス様を引き寄せたといってもいいと思います。イエス様は立ち止まり、二人を呼びます。そして、二人に「何をしてほしいのか」と問うています。この二人が、イエス様に「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」という叫びに、イエス様は「何をしてほしいのか」と、聞いています。そして、二人は、イエス様に「主よ、目を開けていただきたいのです」と答えています。

 イエス様は、二人の盲人を見て、深く憐れます。この憐れむという言葉は、はらわたがギュとよじれるという感じです。本当に、イエス様は二人の求めに答えています。わたしたちを憐れんでくださいを、深く憐れまれます。そして、イエス様の手は、その盲人たちの目に触れられると、すぐに目が見えるようになりました。この二人の盲人は、自分たちの願いが、イエス様の奇跡によって、かなえられました。普通、自分たちの家に戻って、新しい人生を始めようということになると思いますが、違いました。二人は、イエス様に従っていくのです。どうして、そのようになるのでしょうか。

 この二人が本当に求めていたのは、本物の憐れみ、神の憐れみだったのです。目が見えないという状況の中で、いろいろな苦しみや悲しみを背負って歩まなければなりませんでした。二人によって、本当に必要な求めは、目が見えることではなく、本当の憐れみ、イエス様の憐みだったのです。私たちは、ここで問われています。この二人の盲人とあなたは、どのような関係があるのですかと。関係ないと答えるでしょうか。いや、この二人の盲人は、実は、私たち自身なのだというでしょうか。私たちは、この二人の盲人と同じです。何も違うことはありません。目は見えるでしょう。しかし、私たちはいろいろな苦しみや悲しみを抱えて生きています。その内容はそれぞれ違うかもしれませんが、人生という苦しみは同じです。そのことに、私たちは気づいているでしょうか。

 その中で、神に、イエス様に、「主よ、わたしたちを憐れんでください」と祈っているのでしょうか。叫んでいるでしょうか。そこにはいろいろな声が聞こえてきます。いろいろな誘惑の声も聞こえてきます。それでも、真剣に、神に、イエス様に、「主よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んでいるでしょうか。この私たちの祈りや叫びは、必ず、神に、イエス様に聞かれます。すると、イエス様から「何をしてほしいのか」と聞かれます。私たちは、この時に、何と答えるでしょうか。

 先週は、聖徒の日、永眠者記念日の礼拝を守りました。また、十字ヶ丘復活苑で墓前礼拝を行いました。私たち自身の死、愛する人たちの死について、考えました。生きている私たちは、いつか、自分の死を、受け止めなければならない日がやってきます。人の力では、どうすることもできない死を考えました。その死を突き破るために、イエス様は、この後で、エルサレムに行き、十字架につかれるのです。イエス様は弟子たちに言われました。「今、わたしたちはエルサレムに上って行く。わたしは祭司長たちや律法学者たちかに引き渡される。彼らは、わたしに死刑を宣言して、ローマ人に引き渡す。わたしを侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである、そして、わたしは三日目に復活する」と。

 イエス様は、私たちのすべての罪を背負って、十字架を目指されるのです。イエス様は、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず。かえって自分を無にして、僕の身分になり、私たちと同じになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順な道を歩まれたのです。それは、私たちを深く憐れまれたからです。十字架上のイエス様は苦しんでおられます。すべての人々の苦しみや悲しみを負ってくださっています。私たちのすべての重荷を知っていて、負ってくださっています。そして、私たち1人1人に、罪の赦しと、復活の命、永遠の命を与え、神の国へと招いてくださっています。

 その十字架上のイエス様を見上げながら、「主よ、わたしたちを憐れんでください」と、私たちは祈っているでしょうか。そこには、完全な神の憐みがあります。神の愛があります。その神の憐れみ、神の愛を、本当に求めていきましょう。

祈り 神よ、礼拝の時を与えてくださり、ありがとうございます。自分たちの本当の姿を知ることができますように、そして、あなたの憐みを、あなたの愛を、求めることができるような信仰を与えてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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