10月1日の礼拝の内容です。讃美歌は、210.403.433.452.27です。
礼拝説教 使徒5:12~16「使徒たちの手による奇跡」 2023.10.1
10月に入りました。今日は、10月の最初の日曜日です。今年も後3ケ月となりました。時の流れは本当に早いものです。1週間の初めの日曜日にこのように神を礼拝することができますことを心から感謝します。この礼拝を通して、私たち1人1人の歩みがより豊かなものとなりますようと願います。
使徒言行録を読んでいます。初代教会の様子を、この使徒言行録から知ることができます。イエス様の時は何を知らなかった弟子たち、それが、聖霊がくださったことによって、神の救いの御業を知ることができるようになったのです。ここから教会の歩みがスタートしました。弟子たちによって、イエス様の十字架の救いのことを語られました。イエス様の福音を聞いた多くの人々が、イエス様の救いを信じて、洗礼を受けて、教会に加わっていきました。弟子たちによって、イエス様の福音が語られたことと共に、奇跡が行われました。ペトロの手によって、神殿の美しい門の側に置かれていた生まれながらに足の不自由な男が癒されたのです。
そして、今日の聖書の箇所でも、弟子たちによって、多くの奇跡が行われました。私たちは聖書を読みますと多くの奇跡物語があります。とても不思議な出来事です。私たちの理解を超えるものであり、神の力でなければ起こすことのできないものだと思います。しかし、一方で、この奇跡物語は、私たちにつまずきを与えるものだと考えます。聖書に書かれてある多くの奇跡物語をどのように受け止めたらいいのかということです。本当に起ったことなのか、それとも起っていないのか、どう受け止めたらいいのだろうと悩んでしまうのです。今日の聖書の内容は、この奇跡物語をどのように受け止めるかを考えていきたいと思います。
個人的な話ですが、ヨハネによる福音書の前の方に、カナの婚礼の話があり、そこでイエス様によって奇跡が行われました。婚礼の祝いの時に、大切なぶどう酒がなくなってしまったのです。その時に、イエス様は周りの人々に大きな水がめに、たくさんの水を入れるようにいいました。その水をぶどう酒に変えられたのです。私はマジックを趣味しているので、水をぶどう酒に変えることができないかとずっと考えていました。でも、まだ実現していません。いつか、人の前でやってみたいものだと思っています。
関係ない話をして申し訳ありません。弟子たち、使徒たちによって多くの奇跡が行われています。今日の聖書の箇所を見てください。使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われていたのです。民衆は使徒たちを称賛していたとあります。また、14節には、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていったとあります。人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせます。ペトロが通りかかる時、せめてその影だけでも病人にかかるようにしたとあります。ペトロの影によっても、病気の癒しが行われたのでしょう。また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たのです。そこで一人残らず癒しているのです。
使徒言行録の3章の初めに、ペトロが足の不自由な男を癒したことを触れましたが、この奇跡物語はとても強烈なので、もう一度振り返ってみたいと思います。ペトロたちが、午後3時の祈りの時に神殿に上って行ったのです。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれた来ました。神殿の境内に入る人々から施しを乞うため、毎日、美しい門という神殿の門の側に置いてもらっていたのです。ここでペトロとその男の出会いがあります。男はいつものように施しを乞うのです。ペトロはその男をじっと見つめています。そして「わたしたちを見なさい」といいます。その男が何かもらえると思って、ペトロたちを逆に見つめます。ペトロは「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」といいます。そして、右手を取って男を立ち上がらせます。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出すのです。歩き回ったり踊ったりして神を賛美していくのです。その様子を見ていた人々は驚いて、我を忘れるほど驚いたとなっています。
新約聖書の中で、私が一番驚く奇跡は、ヨハネによる福音書11章にあるラザロの復活の場面です。エルサレムに近いベタニアという村にマリアとマルタとラザロの兄弟が住んでいました。イエス様はエルサレムに行かれる時に、べタニアのこの兄弟の家を度々訪ねていたのです。ある日、ラザロが重い病気になってしまい、亡くなってしまいました。ラザロの死から4日後に、イエス様はこの家に行くのです。マルタとマリアのところには、多くの人々がラザロの死のことで慰めに来ていました。マルタはイエス様が来たことを知って、迎えに行きました。マリアは家の中に座っていました。マルタはイエス様にいうのです。「主よ、もし、ここにあなたがいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いなさることは何でもかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」といいます。イエス様はここで「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」といっています。
次に、マリアはイエス様のいる所に来ていいます。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」といって泣いています。一緒にいた人々も泣いています。イエス様はラザロの葬られた墓の前に行きます。イエス様は「その墓の石を取りのけなさい」といいます。マルタは「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」といいます。人々が石を取りのけると、神に祈ります。「父よ、わたしの願いをいつも聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこういうのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」といってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれました。すると、死んでいた人が、手と足を布に巻かれたまま出てきました。顔は覆いで包まれていました。
このように死んで四日経ったラザロが生き返ってしまうのです。本当に驚くべきことです。しかし、このラザロもやがて死んでいきました。ペトロに癒された男も死んでいったのです。イエス様はすべての人々を癒されたのではありません。使徒たちも同じようにすべての人々を癒したわけではありません。奇跡物語は、ある意味で一時的なものです。でも、ここから本当の奇跡のことを知ることになります。
使徒2:23~24,36
このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。
だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。
1コリント15:3~4
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと
これは、イエス・キリストの十字架の福音の内容です。私たちは自分たちの罪によって死ぬべき存在でした。それを、神の子イエス・キリストが十字架かかってくださり、死んでくださいました。そして、3日目に復活してくださったのです。イエス・キリストの十字架の血が、私たちの罪の贖いとなってくださったのです。私たちはそのことを信じて、洗礼を受けることによって、罪が赦されるのです。そして、神の御国に招かれています。そして、永遠の命を与えてくださるのです。これが本当の奇跡です。この本当の奇跡のために、多くの奇跡物語がいわれているのです。
祈り 神よ。あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。本当の奇跡のことを改めて確認することができました。私たちの死の先になるもの、罪の赦しと神の御国と永遠の命です。神の救いの業を心から感謝します。この感謝を、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
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