6月26日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、17、521です。 本日、午後2時から、瀬戸市文化課主催「教会見学会」があります。

礼拝説教     創世記27:18~29「祝福を求める」(小椋実央牧師)   2022.6.26

2人の兄弟がいました。活動的で、野山をかけめぐることが大好きな兄のエサウと、穏やかで家庭的な弟のヤコブ。父親のイサクは兄のエサウを愛し、母親のリベカは弟のヤコブを愛していた。家庭内の不穏な空気は、すでにはじめからただよい始めていたのでした。

その日は突然に訪れました。少なくとも、私たちの目にはそのように映ります。自らの寿命を思いめぐらし、人生の終わりを感じ取っていたイサクは、兄のエサウを呼びます。「獲物をとってきて、わたしの好きなおいしい料理を作ってほしい。それを食べてから、お前に祝福を与えよう。」イサクに悪気はなかったとは思うのですが、このイサクの言い方ですと、祝福することよりも、食べることを優先しているかのようにも聞こえます。祝福を取り違えてしまうという出来事の原因の一つになりうるような、イサクの弱さが、ここにはあったのかもしれません。たらればの話になってしまいますが、イサクがおいしい料理が食べたいなどと言わずに、もっと早くエサウを祝福していれば、このような悲劇は起こらなかったのです。

父のイサクと兄のエサウの会話を聞き付けたリベカは、チャンス到来とばかりに速やかに計画をヤコブに打ち明けます。イサクが食べたがっていた料理を兄のエサウではなくリベカが作り、ヤコブにエサウのふりをして持って行かせる。要するに夫であるイサクを、親子二人で騙すのです。ヤコブは戸惑って、母リベカにこう言います。「お兄さんのエサウは私よりも毛深いのです。お父さんが私に触れたら、私がヤコブだということがばれてしまいます。ヤコブは父イサクをだますことに躊躇しているのではなく、だますことがうまくいかないのではないか、ということに躊躇しているのです。しかしリベカの度重なる説得に負けて、リベカの計画どおりに父をだましに行きます。やはり、ヤコブも長子の権利がほしかったのでしょう。そのことは少し前の25章にも記されています。お腹を空かせて帰ってきたエサウに、長子の権利をゆずることをちらつかせて食事を提供するのです。長子の権利の重要さを最も理解していたのは、父でも母でもなく、また兄のエサウでもなく、弟のヤコブだったのかもしれません。

年のせいで目が見えにくくなっているヤコブは、何度も疑問に思いながらも、しかしヤコブに言いくるめられて祝福を与えてしまいます。聖書に記される数ある物語の中で、最も手に汗をにぎる場面、ベストスリーにはランクインするような、1度読んだら忘れることのできない場面でもあります。そこまでして、兄の祝福を奪ったヤコブがその後どうなったか、は想像に難しくないと思います。兄の怒りを買って、逃亡生活を送るはめになる。おじのラバンの家に身をよせるものの、おじの美しい娘と結婚したいがためにだまされて20年近くただ働きのようなことをさせられる。父や兄を欺いて、神の祝福を横取りしたのであれば、その後それぐらいの苦労をして当然だ、と言えなくもありませんが、母であるリベカの入れ知恵がなければ成り立たなかったわけで、ヤコブはとばっちりというか哀れというか、本来うけなくてもよかったような苦労を負わせられた、と言ってもいいかもしれません、

父がヤコブに祝福を与えたということを知った後に、兄のエサウは子どものように大声で泣きはじめました。父のためによかれと思って一生懸命狩りにいそしんでいたかと思うと気の毒としか言いようがありませんが、先ほども申し上げたように、25章で既に、この出来事の導入編とでも言うような出来事がありました。得意の狩りに出かけておなかをすかせて帰ってくると、ヤコブがおいしそうな料理を作っていた。豆の煮物でした。食べたくてたまらない。どうか食べさせてくれ、エサウはヤコブに頼みます。ヤコブはしたたかに長子の権利を譲るように交渉し、誓ってくれるなら、とまで要求します。弟のヤコブが妬ましく思うほどには長子の権利を大事に思っていなかったエサウは、簡単に誓いを立ててレンズ豆の煮物とひきかえに譲ってしまう。言ってしまえば、この時すでにエサウは祝福を得る権利と言いますか、資格を失っていたのかもしれません。そう考えますと父親のイサクも似た者同士と言いますか、おいしい食べ物に目がくらみ、とにかく食べたい。だから獲物をとってきてほしい。まずは食べさせてほしい、それから祝福するという順番。ヤコブもまたエサウと同じように祝福を与えることよりも食べることを優先させた。私自身を振り返ると、20代や30代の頃に比べればだいぶ辛抱できるようになってきたほうなのですが、やはり食べることに目がない、空腹を我慢できないものですから、今日の箇所は私にとっては本当に耳が痛い話だなぁと思うのです。

祝福を軽んじた兄のエサウと、元々祝福を奪いたいと思っていた弟のヤコブ。単なる兄弟げんかの話かと思いきや、案外根は深いようです。イサクがエサウを愛し、リベカがヤコブを愛した。両親が息子たちをそれぞれを偏って愛したがために、兄弟の確執を生んだと言ってよいと思います。何故イサクとリベカは二人の子どもを偏って愛したのか。イサクがエサウを愛したというのは、エサウが長子だから、ということである程度の説明はできます。日本でも50年ぐらい前までは、家の長男というのは、他の兄弟とはまったく違い扱いを受けていたということは、みなさんのほうがよくご存じだと思います。それならばリベカが弟であるヤコブを偏って愛したのは、リベカのわがままということになるのだろうか。このことは二人の結婚の経緯にまでさかのぼってみますと、24章にこんなことが記されています。イサクの父、アブラハムは自分の僕に命じてイサクの妻になる女性を自分の故郷に探しにいかせます。その条件というのは、見ず知らずの旅人にも親切にするような、心優しい乙女でなければならない、というものでした。そのようにして見つけ出されたリベカは、両親のもとを離れてたった数人の侍女だけを連れてイサクの元へ旅立って行くのです。イサクは速やかにリベカを妻として迎えるのですが、そこにはこんな一行が記されています。「彼はリベカを迎えて妻とした。イサクはリベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た。」イサクはリベカを愛さなかったわけではありません。しかし、その心はリベカにはむいていなかった。母の代わりとして愛されることで、イサクとリベカの結婚生活は小さなひずみが生まれていたのかもしれません。そしてリベカがエサウとヤコブを出産する時、リベカだけがこの言葉を聞いていました。「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くのなり、兄が弟に仕えるようになる。」つまりリベカだけは、祝福を受け継ぐのはヤコブであるとはじめから知っていて、そのこともまたヤコブを溺愛する理由の一つだったのかもしれません。この家族にとって不幸だったのは、「兄が弟に仕えるようになる」との神の言葉が共有されていなかったことです。リベカが話さなかったのかもしれませんし、リベカが話したのにイサクが受け入れなかったのかもしれませんが、どちらにせよイサクとリベカの結婚生活は表面上大きな問題はなかったのかもしれませんが、小さなボタンを掛け違ったままここまで来てしまったのかもしれません。

本日お読みした聖書箇所には「祝福をだまし取るヤコブ」という小見出しがついています。本来長男であるエサウが継承するはずであった長子の権利、祝福を弟のヤコブが母リベカの悪知恵に便乗するような形で奪い取ってしまった。その結果、家族はバラバラになってしまった。家族にとって、まことに不幸な出来事であった、と言わざるをえません。けれども1人1人のエピソードをたどっていくと、誰かしら、何がしかの綻びがあって、誰か1人のせいでこうなった、とは言えない。ヤコブがだましたから、リベカがそそのかしたから、と言うことができない。強いて言うのなら、誰も正しくはなかった。誰も正しい人はいなかった。その中で、ただ神の正しさだけが貫かれた、と言うことです。さきほどエサウが長子の権利を軽んじてレンズ豆の煮物とひきかえにヤコブにゆずってしまった、ということを申し上げました。さらにもう一点、エサウの過ちを申し上げるなら、26章の終わりに記されているエサウの2人の妻のことです。エサウは外国人の妻をめとり、またそのことが両親であるイサクとリベカを悩ませた、とあります。このこともまた長男として、神の祝福を受け継ぐにはふさわしくないと神ご自身が判断された、と考えることもできます。いずれにせよ誰が誰をだました、というのでもなく、誰も正しい人がいない、という中にあって、神の祝福は罪人から罪人の手へと受け継がれていった。このヤコブから、祝福をだましとったヤコブからイスラエルの12部族が始まり、イスラエルの歴史が始まっていく。神の祝福の歴史が脈々と受け継がれていくのです。

改めて思いますのは、そもそも祝福を奪うことは可能なのか、ということです。人が策略を思いめぐらして、おいそれと奪ったり奪われたりできるものなのか。そうではないと思います。祝福は簡単に奪われるものではなくて、神が自ら与えたいと思う人に与えるもの。私たち人間の都合で、あの人ではなくてこの人を祝福してちょうだい、というものではないと思うのです。であるならば、神さまは祝福を受けさせるために、自らの祝福を持ち運ぶためにあえてヤコブという罪人を用いてくださった。神さまはご自分の正しさを貫かれるために、悪しき罪人さえもご自分のご用のためにお用いになった、ということです。そのことはイエス・キリストの十字架の場面を思い起こせば納得がいきます。祭司長、律法学者、イスカリオテのユダ、ローマ総督ピラト、群衆、そしてペトロをはじめとする弟子たち。神がそれぞれの人に働いて、人々の悪しき思いさえもお用いになって救いのみわざを成就させた。神の御手からもれてしまった、神の救いと無関係な罪人は、1人もいません。神は罪人さえお用いになって、ご自分の祝福を受け継がせてくださる。罪人の手から罪人の手へと、神の祝福は受け継がれていくのです。私たちが神の祝福を求めるのは、それに値するからではありません。ヤコブの物語から見るように、神の祝福を受けるに値する人間というのは1人もいない。神さまが罪人さえもお用いになって、ご自分の愛を伝えようとなさっている。神さまのみわざのために罪人である私たちが用いられるために、私たちは祝福を求めることがゆるされているし、祝福を求めるように招かれているのです。だから積極的に罪を犯せ、とは言いませんが、しかし罪深いからこそ誰よりも神の祝福を求めなければなりません。神さまがこのような罪人である私に目をとめて、イエス・キリストという救いを与えてくださった。教会とはかような罪人に救いが与えられるところなのだ、ということを示すために私たちは呼び集められ、神さまのご用のために用いられるのです。そうであるならば、罪人であることを自覚する私たちは、大胆に神さまの祝福を求め、祝福を持ち運ぶ器として立てられることを願い求めたいと思います。

<祈り>御在天の父なる神さま。創世記、人間の罪の歴史に耳を傾けています。私たち、誰一人としてあなたの前に立つのにふさわしくないにもかかわらず、今朝もこのように呼び集めてくださいましたこと、感謝します。あなたの祝福を持ち運ぶ器として、この私たちを、この瀬戸永泉教会を豊かにお用いください。あなたの御前に立つことで自らの罪を知り、尚一層イエス・キリストの救いを感謝して受け止めることができますよう、私たちを新しくつくりかえてください。このお祈りをイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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