11月21日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は386(1)467(1)です。本日の教会暦は、収穫感謝日です。

礼拝説教     マタイ21:1~11「ろばの子に乗られる主」     2021.11.21

 新しい1週間が始まりました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができることを感謝したいと思います。神の言葉を受けて、この1週間の歩みが喜びに満ちたものとなりますようにと願います。今日の教会暦は、収穫感謝日(謝恩日)となっています。教会暦の最後になります。来週からは教会暦は新しくなり、クリスマスを待つ待降節に入ります。この1年間の教会の歩み、私たち1人1人の歩みを守り導いてくださった方に感謝をささげましょう。

 旧約聖書の中で一番知られている人としてダビデがいます。ダビデはイスラエル王国をつくった人です。つまり、イスラエル建国の父といわれる人です。サムエル記上には、このダビデの登場の様子を描いています。当時、イスラエルはサウルが最初の王として登場していました。しかし、国の形としてはまだまだ未完成なものでした。イスラエルの人々は、ペリシテ人と戦っていました。ペリシテ軍には、大男で勇者のゴリアトがいました。その大男のゴリアトが、イスラエル軍の前に出て、大声で叫びます。「イスラエルの人々よ。わたしはペリシテ人、お前たちは1人を選んで、わたしと戦おう。もし、私が負ければ、我々はお前たちの奴隷となる。しかし、わたしが勝てば、お前たちが奴隷となって、我々に仕えるのだ。」と。サウルとイスラエルの全軍は、このゴリアトの言葉を聞いて、恐れおののいています。

 そこに、少年ダビデが出て来て、ペリシテの大男ゴリアトと戦うことになります。相手は、百戦錬磨の強者のゴリアト、対するダビデは、まだ少年でした。アリが象に挑戦するようなものだったと思います。しかし、ダビデは戦いに勝利し、敵を倒しました。それからダビデの活躍が始まっていきます。ダビデは戦いに次々に出て行きます。そして必ず、イスラエル軍に勝利をもたらします。やがて、ダビデは、イスラエル軍の戦士の長に任命されます。ダビデがイスラエル軍と共に戦い出て行き、勝利して、帰ってきます。すると、人々は太鼓を打ち、喜びの声を上げ、琴を奏で、歌い踊りながら迎えます。ダビデの勝利を心から祝います。ダビデが戦いに出て、勝利して凱旋して帰って来る。何度、このような光景があったのでしょうか。イスラエルの人々の記憶として、ダビデのことを力強い王、解放者と残っていったのです。

 このダビデの時代は、イスラエルの人々の記憶に、一番輝いていた時代となっていったのです。その後の、イスラエルの人々の歴史は、非常に困難な時代が続いていきます。イエス様の時代になって、ローマ帝国の支配下にありました。イスラエルの人々には希望がありました。それは、自分たちは神から選ばれた特別な民という意識があったことです。他民族の支配がずっと続いている状況にも関わらず、いつの日か、神がメシアを送って、自分たちを救い出し、かつてダビデがつくったように新しいイスラエル王国が誕生するというものでした。

 イエス様の登場によって、イスラエルの人々は、イスラエルの解放の日が近いと感じるようになりました。神は、わたしたちのためにメシアを送ってくださった。解放の日が近いと期待をいただくようになったと思います。イエス様の弟子たちも、実は、そのような思いの中にあったのです。イスラエルの解放の日が近いと思っていたのです。時は、過越し祭を祝うために、各地から、イスラエルの人々がエルサレムに集まってきます。過越し祭は、かつて、イスラエルの人々が長くエジプトで奴隷の状態にありました。エジプト人からの激しい労役から苦しんでいました。神はモーセを送り、エジプトからの解放を成し遂げたのです。そのきっかけになったのが、神がエジプトにくだした10の災いの最後のものでした。神は死の使いを、エジプト中に送りました。死の使いが通ったエジプト人の家では、家の初子が死んでしまったのです。大いなる叫びと悲しみがエジプト中に起りました。イスラエルの家では、小羊の血が家の入り口に塗られ、それを見た死の使いは、その家を過越し、無事でした。そのことから過越しの祭りといわれるようになったのです。

 イスラエルの人々は、かつて、先祖たちがエジプトで長い間、奴隷で苦しんでいた時に、神は大いなる御手で、救い出してくださったように、今の私たちも同じように解放してくださる。ローマ人の手から解放してくださると信じるようになったのです。モーセの杖、ダビデのような強い王、メシアが、私たちのためにやって来られた。イエス様のエルサレム入城が、今日の聖書の箇所です。大勢の人々と共に、イエス様はエルサレムに入城されます。人々は自分の服を道に敷き、またほかの人々は木の枝を切って道に敷きました。人々は、イエス様の前に行く者も後に従う者も叫んでいます。「ダビデの子にホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」と。

 人々は、イエス様のことを「ダビデの子」と呼んでいます。人々は、力強い王ダビデの再来を期待していました。ホサナとは、「わたしたちを助けてください」という意味です。イエス様がエルサレム入城の時に、乗った動物は馬ではありませんでした。イスラエルの人々の本当の思いは、イエス様に馬に乗って、エルサレムに入城して欲しかったと思います。馬は戦いを象徴しているからです。しかし、イエス様が乗られたのは、子ろばでした。ろばは平和を現すといいます。それも子ろばでした。マタイは、預言者の言葉を引用しています。「シオンの娘に告げよ。見よ。お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」と。

 イエス様は、剣を持って、ローマ帝国と戦うために、エルサレムに入城したわけではありませんでした。イエス様は、ご自身の十字架を持って、人間の罪と戦うために、エルサレムに入城されたのです。

このエルサレム入城の際に、群衆は「ダビデの子にホサナ」と叫びました。その群衆は、イエス様の十字架の時には、「十字架につけろ」と変っていくのです。自分たちの期待を裏切ったイエス様に対して、今度は、ののしりの言葉に変ってしまうのです。イエス様のエルサレム入城から、6日目に、イエス様は十字架におつきになります。十字架の上で死なれ、墓に葬られ、3日目によみがえられたのです。このイエス様の十字架の死と復活によって、私たちのすべての罪は赦され、復活の命、天の国、永遠の命が与えられるようになっていくのです。

 イスラエルの人々は、イエス様をメシアとして期待して、エルサレムに入られました。ローマ帝国からの解放、イスラエルの国家の実現を願っていたのです。イエス様の十字架から、約30年から40年後に、イスラエルの人々は、ローマ帝国と戦いになりました。いわれるユダヤ戦争というものです。この結果、どうなったかといえば、多くのイスラエルの人々が死に、または捕虜となり、約束の地を失うことになります。イスラエルの人々は全世界に散らされ、流浪の民となっていきました。

それから、約2千年間、流浪の期間は続き、様々な苦難の道を歩むことになります。1948年に、今のイスラエル王国ができるまで、続くことになりました。そして、それは新しい戦いの始まりでもありました。イエス様が逮捕される時に、弟子のペトロが敵の1人に剣を抜き、切りかかっていきました。すスト、イエス様はペトロに「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」といいました。イエス様は、私たちが本当に必要なものを教えてくださったのです。イエス様がエルサレム入城の時に、馬ではなく、子ろばに乗って入城された意味を、私たちは深く受け止めていきたいと思います。

祈り 神よ。礼拝の時を皆と共に持つことができましたことを、心から感謝します。新しい1週間の歩みも、あなたのみ言葉を受けて、よき歩みをすることができますように、守り導いてください。イエス様がろばの子に乗って、エルサレムに入城された意味を理解することができますように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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