1月28日の礼拝の内容です。

礼拝

1月28日の礼拝の内容です。讃美歌は、18.224.457.573.27です。

礼拝説教   イザヤ2:1~5「主の光の中を歩もう」(小椋実央牧師) 2024.1.28

2024年最初の月の最後の主日を迎えました。ここで、みなさんと共にクリスマスをお祝いしてから、一か月が過ぎました。時の流れの速さに驚きつつ、しかし、日曜日ごとにみ言葉にあずかる幸いに感謝したいと思います。2024年という新しい年も7日に一度、繰り返し楔を打ち込むように、み言葉によって整えられて、主が定めてくださる道を一歩ずつご一緒に歩んで参りたいと思います。

イザヤ書のみ言葉が朗読されました。少し調べてみたのですが、日本では8月に、8月には終戦記念日がありますので、平和というテーマをかかげて礼拝を守る時にこの箇所が選ばれることがあるようです。確かに4節以降に剣や槍、戦うという言葉が出てきます。戦うことを学ばないというのはいかにも平和のメッセージとしてふさわしいような気もします。小見出しには、太字でわざわざ「終末の平和」と記されています。しかしよくよく本文を見てみますと、平和という文字は聖書箇所の中には一文字も出てきません。剣や槍を鋤や鎌に持ち変える、というあたりが戦争反対、暴力反対の平和的なイメージがあるのかもしれません。

毎回同じことを申し上げて恐縮ですが、この太字の見出しは聖書の本文ではありません。小見出しは聖書を編集する段階で後から付け加えたものです。つまり、イザヤ本人が語った言葉ではありません。ですから礼拝の司式者はこの太字の部分を朗読しないことになっています。みなさんも覚えておいでのことと思いますが、新共同訳聖書のひとつ前の聖書、口語訳聖書、勿論その前の文語訳もそうですが、新共同訳聖書になるまでは小見出しというのはついていませんでした。ですから以前の聖書は余白というものがほとんどない。2章から3章まで、まったく白紙の部分がなくてびっしりと書かれている。新共同訳聖書を初めて手にとった時、段落ごと、物語ごとに空白が設けられて、小見出しが添えられているので、ものすごく見やすくなった。もっと正確に言うと、初めて新共同訳聖書を手にした時、確か大学生の時だったと思います。聖書の言葉が簡単になった。聖書が身近に感じられた。悪い言い方をすると、少し聖書の内容が、口語訳と比べて軽くなってしまった。口語訳と比べて新共同訳のほうが易しい言葉で書かれていますし、余白の部分が増えて読みやすくなったので、福音そのものは変わらないはずなのに、軽い、という印象を抱いてしまいました。

話が横道にそれてしまいましたが、小見出しの話。これがあることによって見やすくもなり、探しやすくもなりました。しかし、必ずしもこの小見出しが適切かどうか、内容をぴったりと言い当てたものになっているかというとそうでもないことがあります。本日の箇所のように、本文には平和という言葉が一文字も出てこないのに、今日の箇所は平和についての箇所ですよ、と小見出しにリードされてしまう。決して平和について語られていないわけではないのでしょうけれども、先入観を持ってしまうと、なかなか聖書の言葉が頭に入ってきません。本日は旧約聖書ということで日頃あまりなじみがない、新約聖書に比べて少しハードルが高い箇所を読もうとしていますが、もうひとつハードルをあげて書いてある小見出しに惑わされない。1節から5節の本文に集中して、ご一緒にイザヤの言葉に耳を傾けて参りたいと思います。

預言者イザヤの言葉をひも解いていこうとしています。本日お読みした箇所は比較的有名な箇所ですので、今までに何度か礼拝で聞いたり、また文字としてお目にかかることもあったかもしれません。特に4節の部分はニューヨークにある国連広場の壁にも刻まれていて、その壁は「イザヤ・ウォール」と呼ばれているそうです。キリスト者でない方にも、世界中のいろんな国籍の人々にこのみ言葉が見られている、読まれている。この言葉と出会った一人でも多くの方が、一体どんな方がこの言葉を語られたのだろう、聖書の神さまはどういう方だろう、と興味を持っていただければと願わずにはいられません。そしてこのみ言葉をとりついだのはイザヤだけではなくて、同じ時代のミカという預言者も語っています。

ミカ4:1-4(p1452)

終わりの日に主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。

もろもろも民は大河のようにそこに向かい多くの国々が来て言う。

「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。

 主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。

主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。

主は多くの民を争い裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。

彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。

国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。

ミカのほうがもう少し長く続くのですが、イザヤの言葉とほとんど同じということがお分かりいただけたかと思います。預言者のイザヤと預言者のミカ。宮廷預言者として、つまり王さまの近くで神の言葉を取り次いだイザヤと、一般庶民にまじって民衆にむかって語った預言者のミカ。預言の言葉はほぼ同じですが、イザヤとミカが置かれていた環境はずいぶん違いました。実は旧約の預言者の中でも宮廷預言者であるイザヤは少し別格でして、ミカのような預言者、つまり民衆にまじってみ言葉を取り次いだ預言者のほうが一般的な預言者でした。よく知られている人物に置き換えていますと、モーセやエリヤのように、人々と同じ生活をして、貧しい身なりをして、高価な装飾品は一切身に着けず、時には権力者から命を狙われて、それでも苦しみに耐えてみ言葉を語り続けるというのがよくある旧約の預言者のスタイルです。イエスさまもまた、その旧約の預言者のスタイルを継承している、と言ってもいいかもしれません。

一方イザヤは宮廷預言者です。宮廷といってもダビデ王、ソロモン王の時のような豪華絢爛な時代ではなくて、王国滅亡にむかっている時代です。それほど裕福ではなかったかもしれません。それでもイザヤは住む場所を与えられて、着るものにも食べるものにも困らず、国の指導者に面と向かって助言できる立場にいたのです。モーセやエリヤ、ミカなどが貧しさにあえぎながら、時の支配者の重圧に苦しみながら語ったことを思いますと、正反対のところで、整った環境でイザヤは語ることをゆるされていた。にもかかわらず、イザヤとミカが同じ時期に、ほぼ同じみ言葉を取り次いでいる。ということは預言者の良しあし、環境の違いにかかわらず、今日お読みした箇所が当時神が伝えようとしていた普遍的な内容であったということが分かります。そしてこの時期に宮廷にいるイザヤと、一般民衆に交じっていたミカに同じ言葉が与えられた、ということ、この内容を知るために、少しだけ当時の社会情勢に触れてみたいと思います。

サウル王を初代として始まったイスラエル王国、しかしサウル、ダビデ、ソロモンとたったの3人、100年程度しか続きませんでした。ソロモンの息子の代で北と南に分裂をします。具体的にはユダ族とベニヤミン族が南、その他の10部族が北王国となります。分裂といっても、元々日本の四国ぐらいの広さを二分割するのです。小さな国が、より一層弱体化します。そして時同じくして、アッシリアという大きな国が勢いを増していました。やがて北王国はアッシリアに滅ぼされます。南も勢いにのったアッシリアから相当なゆさぶりをかけられます。イザヤはこの南王国に仕える預言者でした。時の指導者、アハズ王は大国のアッシリアにごまをすっておもねってみたり、そうかと思えばアッシリアに対抗すべく遠いエジプトに助けを求めたりしました。アハズ王は神を信頼するのではなくて、外国の勢力に、具体的には外国の経済力と軍事力によって生きながらえようとしたのです。ダビデゆえにこの王国はゆるぎないものにされると約束された町、輝かしいはずのエルサレムは無残なまでにアッシリアに蹂躙されているのです。大海に漂う小舟のように、操縦するままもなく、エルサレムはいつ転覆してもおかしくはない状況です。北王国に続いて、南王国滅亡の足音がひしひしと聞こえてくる中でイザヤが取り次いだのが本日のみ言葉です。

終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。主の神殿の山というのはエルサレムのことです。アッシリアに攻め落とされようとている弱々しいエルサレムのことです。そのエルサレムがしかし、どの山にもまさって、どの国にもまさって高く立てられる。エルサレムの将来与えられる輝かしい栄光をイザヤは語ります。それはエルサレムに何か良いところがあるからではありません。エルサレムに歴史が積み重ねられているからでもありません。終わりの日、イエスさまが来てくださるから。ただイエスさまが来てくださるというただ1点によってのみ、エルサレムが世界で最も輝かしい場所に変わるというのです。今にもアッシリアに攻め落とされようとしている貧しいエルサレムが、大国アッシリアをしのぐ場所になるというのです。ただしそれはイエスさまに来ていただかなければ実現不可能です。復活の主が来てくださることによって、エルサレムはどこよりも高く、どこよりも強く、どこよりも美しく輝くのです。

終わりの時、主イエスがエルサレムに立たれる時、変わるのはエルサレムだけではありません。諸外国の人々がこぞってエルサレムにやってくる、というのです。

国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。

「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。

 主は私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう」と。

主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。

大河のように、川の流れのように異邦人がエルサレムに流れ込んでくる。礼拝をしに来るのです。イエスさまを拝みに来るのです。ヤコブの神の家とはエルサレムの神殿のことです。イスラエルの人たちだけの神殿ではなく、その時にはさまざまな国の人たちが神さまを礼拝しにやってくる。まさに今日の私たちの礼拝の状況です。イスラエルの人だけでなく、どんな言語であっても、どこに住んでいたとしても、そこに会堂がありみ言葉が語られるところであれば、そこに集って礼拝にあずかることができます。そして多くの民が、私たちが教会に集い、礼拝をささげようとするまさにそのところで主はわたしたちに道を示されるのです。誰もいないところ、何もないところで神さまは道を示されるのではありません。私たちがいるところ、私たちが神の言葉を聞こうとしているところでこそ、神さまは道を示してくださるのです。飛躍した言い方をすれば、私たちが神さまの救いのために用いられるのです。ここに私たちがいるから、神の言葉を聞こうとする民がいるから、神さまは道を示してくださるのです。私たちが集うがゆえに、私たちは神さまから救いの道を見せていただくことができるのです。

そして示された道を異邦人である私たちが、イスラエルの人たちと共に御言葉に従って歩んでいきます。その私たちの足元を支えるかのように、御言葉が、主の教えがエルサレムからあふれていくのです。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。大河のようにどっとエルサレムに流れ込んできた異邦人たちが、今度はみ言葉という流れにのって国々へ、故郷へ、主の教えを持ち帰っていくのです。御言葉を聞く民がいるが故に神さまは救いの道を示してくださり、神さまが道を示してくださるから、私たちは神さまの教えを携えて帰っていくことができるのです。

話が横道にそれますが、エルサレムには川というものが一つもないのだそうです。観光で行かれた方はご存じかもしれませんが、私は行ったことがないので地図で見ただけなのですが、エルサレムというのは少し小高い丘の上にあります。海抜720メートルから790メートルとあります。小高い丘の上にあるエルサレムには川というものがなくて、あるのは人工的につくられた地下の水路だけなのだそうです。ですからこれは私の読み込みすぎかもしれませんが、国々がこぞって大河のようにエルサレムに集い、そして主の教えがエルサレムから流れ出ていくというのは、チグリス・ユーフラテス川とか、ナイル川のような悠々とした川の流れというのではなくて、人知れず、地下を細々と流れている地下水路のようなものかと思うのです。有名な河川のようにいつも目につくもの、風光明媚なものではなくて、誰が見ていようと見ていまいと、私たちは休むことなくせっせと教会に通い、夜眠る間にもみ言葉の教えは人知れず脈々と流れているということなのかもしれません。夜遅くに扉を閉めてたった一人で祈る、その祈りもやはり大河の一滴であって、その一滴は主イエスの元に集められて、そして隣人を潤し、癒し、希望を与える大きな力となっていくのかもしれません。

大国アッシリアに圧力をかけられて、もはや風前の灯火となったエルサレム。そのエルサレムの輝かしい未来をイザヤは語ります。終わりの時、主イエスが来られて、エルサレムはどこよりも高くかかげられます。異邦人が集い、神を礼拝し、異邦人によって神の教えはエルサレムから広まっていくのです。神の教えがイスラエルのものだけでなく、地上のすべての人たちに分かち合われるようになった時、いよいよ最後の言葉が与えられます。4節です。

主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。

彼らは剣を打ち直して鋤とし、

槍を打ち直して鎌とする。

国は国にむかって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。

全ての武器が、人を傷つけ破壊する道具が、命を生み出す道具に変えられる。剣を上げずとありますから、もはや攻撃することもなくなる。これは今現在起きていることではなくて、終わりの時の出来事です。主イエスが来てくださるとき、終わりの日のことです。終わりの日を待たなければ、これらのことは実現しません。残念ながら、終わりの日を待たなければ、一人も傷つかない日というのは私たち人間の手で作り出すことは不可能に近いことでしょう。しかし異邦人である私たちがエルサレムに行かないにしても、このようにみ言葉にあずかる日々があるということは、剣を打ち直して鋤とするような、槍を打ち直して鎌とするような日々が、そこかしこで始まっていると言ってもいいでしょう。

世界の情勢に目を向ければ、空爆のニュースを、侵略のニュースを聞かない日はありません。しかし傷ついた旅人に油を注ぐような、ニュースにも取り上げられないようなささやかな隣人愛が、この地上から消えてしまったわけではありません。途絶えそうで決して途絶えることのない、地下水路のような神さまの愛が脈々とこの地球上を覆っていてくださることを私たちは信じているし、私たちもまた神さまが示してくださる道を歩みつつ、その道を一人でも多くの人に教えたいと思うのです。私たちが一つの国に戦争を放棄するように説得するのは不可能かもしれませんが、少なくとも一人の人に寄り添い、耳を傾けて、見守ることはできるのではないか、と思うのです。

はじめのところで、本日の聖書箇所の小見出しには「終末の平和」と書いてあるのに、本文中には平和という文字がない、ということを申し上げました。この見出しを考えた人は、おそらく「戦うことを学ばない」ということから平和と言う言葉を連想したのではないかと思うのです。しかしあらためて考えると戦うことを学ばないとはどういうことなのか。武器を捨てろと命じられているわけでもないし、戦うな、とも言われていない。平和に過ごしなさいとか、平和に貢献しなさいと命じられているのでもありません。ただ、戦うことを学ばない、のです。終わりの時に神さまが国と国をさばいてくださると、私たちは戦うことを学ばないようになる、というのです。ということは、現在は戦うことを学んでいる状態なのだ、ということが分かります。

学ぶというのはどういうことか。私自身は学ぶというのは和気あいあいと楽しいもの、というよりは、一人で苦しく耐えるもの、という印象があります。学ぶことが楽しいにこしたことはありませんが、結局のところ何かを暗記したり、レポートを書いたり、ということは人の手を借りずに自分でやるしかありません。一方で、独学で身に着ける、ということもあります。英語などの語学を、自分は独学でできるようになった。独学でTOEICで800点とった、とか英語の教材の宣伝文句にもあります。一人でコツコツと勉強する、またそのほうが学校で集団で勉強するよりも身につく、という方もおられるかもしれません。それならば独学というのがまったく一人で完結した学びか、というと決してそうではありません。そのテキストを作った人がいます。今日ですとYou tubeを見て勉強する、英語や数学、いろんなものを学校の先生より面白く無料で教えてくれる動画がたくさんあります。そういうものを用いて勉強するのはたった一人の学びかというとそうでもなくて、作っている人、動画を配信している人がいるわけです。となると、学ぶというのは個人的な作業のようでありながら、人と人との会話があって、言葉のやりとりがあって、たとえ紙相手の学びであったとしても、そこには人間的な交わりがあると言わざるをえません。学ぶということに人間同士の交わりがあるのだとしたら、戦うことを学ばない、とはどういうことか。これは少し過激な表現かもしれませんが、戦うことを学ぶような関係をやめるということです。

私たちは誰一人として、積極的に戦争について教科書を開いて学んでいる人は一人もいないと思いますが、人との会話で、テレビを見ながら、インターネットをしながら、自分では気づかないうちに戦いについて学んでいる状況にあります。勿論、事実を知ることは必要です。私たちは事実を知る自由がありますし、事実を伝える自由もあります。しかしそのことと、戦うことを学ぶことは諸刃の剣で、私たちはこの地上の生涯を歩む限り、戦うことを学ぶことからは免れることはできません。山奥で誰とも交わらず、戦いについて学ばない状況を作れなくもないですが、それが神さまに与えられた歩みとしてふさわしいかどうかはわかりません。全ての人が仙人のような暮らしをしたら、飛行機も飛ばなければ蛇口をひねっても水が出なくなってしまいます。私たちは地上の生涯がゆるされている限り、大半の人が、人と人との交わりの中で、聖書の言葉を借りるなら、戦いについて学びながら生きていかざるをえないのです。

しかし、それが終わる日がくる。戦いについて学ばなくてもよい日、戦いを学びあうような関係をやめることのできる日が、終わりの日には与えられるのです。ただ神さまと顔と顔とをあわせて、戦いのことを考えずにただ礼拝の喜びに生きる、そのような日が終わりの時には与えられるのです。そのことの前触れとして、今私たちの礼拝があるのです。このような形でみ言葉に身を浸して、なんの心配もなく、ただ神との交わりに喜んで生きる、そのような終わりの時が備えられているのです。

イザヤの預言の言葉に耳を傾けて参りました。アッシリアに圧力をかけられているユダ王国、そこで語るイザヤの預言です。アッシリアの攻撃におびえ、アッシリアの捕虜となる恐怖からやがて解き放たれる将来を語りました。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。イザヤは呼びかけます。神がイザヤという預言者を通して呼びかけます。ヤコブの家というのは、イスラエルの人々、という意味です。すでに先に滅んだ北王国の人々もふくまれています。元々12部族は兄弟です。喧嘩別れをしたわけではなく、憎みあっているわけでもありませんから、北王国の滅亡は南の人たちにとっても悲しい出来事であったことでしょう。しかし神さまは先に滅ぼされた国の人たちも、一緒に主の光の中を歩もうと呼びかけるのです。主の光の中を歩むとは、主の言葉に従って歩む、ということです。悔い改めの呼びかけに答えず、何度も神に背いた人々にむかって、共に歩もうと呼びかけるのです。

復活の主イエスは3度主イエスを知らないといったペトロをもう一度招かれました。主イエスの弟子たちを殺したパウロさえも、伝道者として招かれました。神さまは何度でも私たちを招いてくださいます。神さまを裏切った私を、失敗した私を、しかし何度もここに呼び戻して、み言葉を聞く交わりの中に私たちを立たせてくださるのです。神さまは決してあきらめることのないお方です。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。2024年の歩みが始まっています。この一か月だけでも、すでにいろいろなことが起きて、失望の中にある方もいれば、怒りにとらわれたままの方もおられることでしょう。しかし神さまの招きはいつも変わることはありません。私たちが悪い思いにとらわれている時も、瀕死の状態であっても、私たちは常にここに招かれているのです。共に歩む仲間が与えられているのです。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。終わりの日にむかって、重たい足も、傷ついた足も、互いに支えあって一歩ずつ歩んで参りたいと思います。

<祈り>ご在天の父なる神さま。南王国、イザヤの預言の言葉に耳を傾けました。他人を傷つけてしまう私も、他人に傷つけられた私も、しかしあなたのみ言葉に招かれて共に歩むことができますように。

あなたのみ言葉を携えた麗しい流れが、この地上の隅々にまで届きますように。この祈りを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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