7月9日の礼拝の内容です。

礼拝

7月9日の礼拝の内容です。讃美歌は、58.197.459.493.9

礼拝説教       使徒3:1~10「美しい門での奇跡」   2023.7.9

 時は午後3時でした。この時は、イスラエルでは祈りの時間となっていました。人々は神殿に上って行って、祈りの時を持とうとしていました。神殿の入り口の1つに美しい門と呼ばれていたものがありました。きっと美しい門だったから、そのように呼ばれていたのでしょう。その神殿の美しい門の側に、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来ました。神殿の境内に入る人々に施しを乞うために、毎日、神殿の門の側に置いてもらっていました。

 生まれながらに足の不自由な男がいた。その男は運ばれて来た。自分自身の力では、その神殿の入り口まで行くことはできませんでした。それで、他の人々の手を借りて、運ばれて来たのです。それも毎日です。午後3時になると、この男は、いつも美しい門の側にいました。神殿の境内に入る人に施しを乞うためです。

 当時、イスラエルの人々の中で、生まれつき足が不自由であることは、神から汚れている者として考えられていました。その人が、生まれつき障害があることは、本人か家族に何かしらの罪を犯したためと考えれていたのです。神殿に入り、神に祈ることもできず、神殿に入る人に施しを乞うことしかできなかったのです。それが、生まれつき足が不自由な男の人生だったのです。男は運ばれてきた、その場所に置かれたのです。生きた人間としてではなく、物であるかのようにその場に置かれたのです。生まれつき足の不自由な男の人生は、普段は、家の中にじっとして暮らしていたのでしょうか。時間になれば、周りの人々が、神殿の入り口の門の側まで、運んでもらうのです。その場で、人々の祈りの時が終るまで、その入り口の側にいて、人々の施しを乞うていたのです。そして、また時間になれば、自分の家まで運んでもらうのが、毎日の日課になっていました。彼が動けなくなるまで、そのことは繰り返されていくのでしょうか。

 そこに、ペトロとヨハネが、午後3時の祈りの時に、神殿に上って行ったのです。イエス様が十字架につけられて殺され、墓に葬られ、3日目に復活されました。その後、神のみもとに帰られました。神から聖霊が弟子たちのところに下り、教会が誕生しました。イエス様の弟子たちは、イエス・キリストの福音の意味を理解することができるようになりました。ペトロがイエス様の福音の説教を語ってくださっていました。ペトロの説教を聞いた人々の3000人が、その日に洗礼を受けて、教会の群れに加えられたのです。ペトロたちは、聖霊を受けて、新しい教会がスタートしたのです。それでも、ペトロたちはそれまでの祈りのルールを守っていたことが分かります。

 ペトロとヨハネが神殿の入り口、美しい門の側にいる生まれつき足の不自由な男と出会うのです。生まれつき足の不自由な男にしてみれば、いつもしているように施しを乞うていくのです。「どうか、私に恵みを与えてください」と訴えたのでしょうか。ペトロとヨハネは一緒に、彼をじっと見るのです。このじっと見るということが、この聖書の箇所のポイントだと私は思います。そして、「わたしたちを見なさい」というのです。その生まれながら足の不自由な男は何かもらえると思ったのでしょう。2人を見つめていくのです。その男にすれば、何か特別な物がもらえると感じたのでしょう。2人を見つめていくのです。

 ペトロは「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」といいます。ペトロが、生まれつき足の不自由な男に与えることのできるものは何か。この男の欲しい物は、金や銀でした。確かに、この男には必要な物でした。しかし、ペトロは、その金や銀を持っていないのです。ペトロが与えることができるものがありました。それが、ナザレの人イエス・キリストの名です。

 イエス・キリストの名、または、聖霊といってもいいでしょう。このイエス・キリストの名の力は、罪人を救う力があるのです。死ぬべき体から栄光の体に変える力があるのです。滅びるべき体から復活への体へと変える力があるのです。ここから奇跡が起ります。イエス・キリストの名によって、立ち上がり、歩きなさいといいます。そして、右手を取って彼を立ち上がらせるのです。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出したのです。イエス・キリストの名の奇跡の力は、生まれつき足の不自由だった男、今まで、一度も立って歩いたことがない男を、躍り上がって立ち、歩き出していくのです。躍り上がって立つということがいかに奇跡だったかを強調しています。

 そして、歩き回ったり、踊ったりして神を賛美し、ペトロとヨハネと一緒に神殿の境内に入って行ったのです。周りにいた人々は、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見るのです。人々はそれが神殿の美しい門の側に座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起ったことに我を忘れるほど驚いたとあります。

 ペトロによる奇跡物語でしょうか。生まれつき足の不自由な男が、イエス・キリストの名によって、急な躍り上がって立って歩き始めていくのです。一度も歩いたことがない人が、急に躍り上がって立ち歩き始めていくこと、これだけでも驚くべきことです。彼は、初めて躍り上がって立ち歩き始めた時に、何をしたか、それは、神殿に入って神に祈ることでした。神を礼拝することでした。神への感謝を、すべての体を使って表現しているのです。

 旧約聖書では、生まれつき足が不自由であることは罪人であると考えられていました。もう一方で、新約聖書を見ると、パウロはローマ書3章で「皆、罪の下にあるのです。正しい者はいない。1人もいない」と書いています。そうすると、私たちのすべてが、神の前では罪人とされています。生まれつき足の不自由な人も、私たちも同じ罪人ということができます。私たち1人1人が、ここにいる生まれつき足の不自由な男と一緒に、ペトロのいうように「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」という言葉を聞く必要があるのです。私たちすべてが、このペトロの言葉を聞く必要があるのです。ここで起っているのは、生まれつき足の不自由な男のイエス・キリストの名への信仰告白です。

 今まで、足が不自由で一度も立って歩いたことはありませんでした。それが、イエス・キリストの名による力によって、踊って立ち上がり、立って歩くことができるようになっていくのです。これは、私たちの信仰によって新たにされることです。ここにこそ、聖霊の力が働いているのです。人間の力ではありません。神の力、イエス・キリストの力、聖霊の力です。その驚くべき力が、ここで起っているのです。

 罪人を救いへと導く力を考えていきたいと思います。ここにいる私たちは、イエス・キリストを信じ、洗礼を受けて、キリスト者となっています。また、求めている者もいます。ここでは、生まれつき足の不自由な男がペトロによって、救われました。神は、罪人の救いを、人を通して行うのです。瀬戸永泉教会でも人から人を通して、伝道がなされていくのです。私たちを用いて、神は、人を救いへと導いていくのです。

 ペトロはいいました。「わたしには金や銀はありません」と。私たちも同じです。では、私たちにはいったい何があるというのでしょうか。ペトロは「わたしが持っているもの、ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」といっています。私たちは、ペトロのようにいうことができるでしょうか。イエス・キリストの名です。どれほど、イエス・キリストの名による信仰を持っているでしょうか。ペトロは、その男に「わたしたちを見なさい」といいました。私たちは、このペトロのように「わたしたちを見なさい」ということができるでしょうか。私たちにはできません。

 イエス・キリストの伝道ということを考える時に、自分はその資格がいったいあるのだろうかと問うています。私は教会の牧師として立っています。でも、それは、私たち自身の力で立っているということではなくて、イエス・キリストの名によって立たせられているということです。教会の中に、聖霊の力が働いているのです。聖霊の導きが起っているのです。奇跡が起っています。

祈り 神よ。あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。あなたの力の働きを見てきました。生まれつき目の見えない男に、その奇跡を見てきました。ペトロを通して、イエス・キリストとの出会いが起っていました。今も、その聖霊の力が、この教会に起っていることを信じます。私たち1人1人が、神から伝道者としての使命を与えられています。その使命を、心から喜んで果たしていくことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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