5月29日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、83(1)346(1)です。今日の午後から竣工式があります。

礼拝説教     創世記11:1~9「傲慢さへの介入」(小椋実央牧師)  2022.5.29

主は彼らをそこから全地に散らされた。バベルの塔、建設の失敗の記録。一つの町の崩壊を聖書は語ります。一つの塔を建てることが、この町の中心事業、政治活動の中心でした。働く場所を生み出していました。経済活動も活発になっていました。貧しい暮らしは豊かな暮らしへと変わり始めていました。しかし神さまはこれをやめさせます。ひとつの言葉で生きていた彼らに、異なる言葉を与えます。混乱します。塔の建設どころではなくなります。彼らは散っていきます。そうせざるをえなくなるからです。

バベルの町の人たち。非常に賢い人たちの集まりでした。大きな石がない土地です。もともと、巨大な建築には向いていない土地です。しかし彼らはれんがをつくりだすことを発見します。技術の進歩です。人々がたゆまぬ努力によってれんがを生み出したことを、神さまは温かいまなざしでご覧になっています。神さまはすべての技術の進歩を否定されるでしょうか。科学や医学の発達に、神ご自身が人間に追い越されるかもしれないという不安を抱かれるでしょうか。答えは否です。自動車がいち早く、病院までけが人を搬送するのを忌々しい思いでご覧になっているでしょうか。電話の受話器を通して、或いは様々なコミュニケーションの手段を通じて温かい励ましの言葉を送りあうことができるのを、どんな思いで神がご覧になっているでしょうか。考えてみればすぐに分かります。人間が何を発明したのかを心配しているのではありません。人間が自分たちで発明したものを、どう使うか、なんのために使うのかということに神さまはまなざしを注いでおられるのです。

バベルの町の人たちの賢さは、技術だけではありませんでした。散らされることのないように、一つの民であろうとした。危機管理能力にも優れていたのです。戦争に負けて、捕虜となってしまわないように。飢饉や自然災害が襲ってきても、1人も失わないように。みなで結束して、思いを一つにして、一つの民であろうとした。それがバベルの塔を建設した彼らの賢さです。散らされないように、一つの民であろうとした。結束力で、固い絆でバベルの町の人たちはしっかりと結ばれていたのです。今日の世界情勢、また日本の状況を見ても、私たちは一つの民であろうとする努力をしているかと反省させられます。一つの民であるどころか、小さな世界を積極的にかきまわしているかのように見えます。学校においても、職場においても、政治の世界においても、家庭においても。相手によりそうどころか、相手を蹴落としてまで自分を守ることに必死です。私たちは時に、バベルの町の人たち以下になってしまうこともあります。

高い志を持って、彼らは塔の建設を始めます。天まで届く塔を建てよう。彼らは神を目指して塔を建て始めます。しかし人間の良心と、名声を求める思いが入り混じっていることに気が付きます。「さぁ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地に散らされることのないようにしよう。」一つの民であり続けよう。自分を守ろう、家族を守ろう、隣人を守ろう。その言葉の背後に隠された、人間の思いが見え隠れしています。自分たちは町を守るために、防衛手段としてこの高い塔を建てるのだ。自分たちのすばらしさは、きっとこの塔の建設によってあまねく伝わることだろう。我々は天まで届く塔を建てることによって、有名になろう。いや、有名になるに違いない。高い塔の建設は、いつの間にか目的が変わっていきます。自分たちを守るための塔ではなくて自分たちを誇るための手段となっていきます。

人間は何故か、正しい行いをしようとすればするほど、そこで過ちを犯します。正しく実行することのできる自分が誇らしくなります。そして、そうでない人のことを心の中で裁きはじめます。はじめは誰もが純粋な心で、良い志ではじめたに違いないと思うのです。しかしそれがまたたくまに、人間の思いに支配されてしまう。自分のほうが正しい、そのものさしを相手に押し付けようとする。人間にはそういう性質があります。そこから逃れることができないように思います。神は降ってこられます。私たちの中にひそむ、純粋でない思いをご覧になります。神が阻止しなければ、誰も止めることができない。私たちの傲慢さに神が介入してくださるのは、神が私たちを愛しておられるからです。

「我々は降っていって、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」バベルの人たちにとって、この出来事は失敗の記憶です。裁きの記憶です。高い塔を完成させることができなかった。町を建設することができなかった。一つの民であり続けようという自分達の思いを実行することができなかった記憶です。しかしバベルの塔建設を完成させていたらどうなっていたのか。塔の建設失敗どころか、恐ろしい出来事が人間を襲っていたに違いありません。とてつもない力を持ったバベルという町が、近隣市町を次々と制服していくことは目に見えています。神を抜きにした建設は、たとえそれが善意であっても滅ぼされるのです。神がお下りになること、それは私たちにはただの失敗のように見えます。厳しい裁きのように見える。しかしそこには私たちの救いがあります。神の裁きにおいてこそ、神の愛が示される。そのことは、御子イエス・キリストが十字架で神の裁きを1人でお受けになったことにあらわされています。しかしそこでこそ、十字架の死という残酷さの中に私たちへの愛、私たちへの救いが示された。その前触れとして、この創世記に神による建設中止の記事が書かれている。神の介入がないところには、神の愛はないと言っても言いすぎではないのです。

本日は、1年以上に渡って続けて参りましたこの礼拝堂の増改築工事の竣工式が行われます。教会では竣工式よりも献堂式のほうが馴染みがあると思います。献堂する、できあがった建物、礼拝堂を神さまにおささげするという意味での献堂式という言葉はどなたにもよく理解いただけるのではないかと思います。一方、竣工式というのは施主である私たち瀬戸永泉教会と、設計士と、工事を請け負った中島工務店と3者が集まって、工事が終わったことを報告し、必要な書類を交わし、互いにねぎらい、感謝を伝える。献堂式と比べると、献堂式のほうが教会関係者、世間一般に公開する華やかな印象が強いのに対して、竣工式のほうが事務的な要素が強いのですが、いずれにしてもこの工事の期間が神さまによって支えられ、励まされながら、この日を迎えることができた。祈りをもって教会建設を始め、祈りをもって教会建設を閉じるというのは、非常に教会らしいあり方ではないかと思うのです。しかも、本日が竣工式で、次週には聖霊降臨日を迎えます。聖霊降臨日は聖霊が降って教会が誕生をしたことを覚える日です。この聖霊降臨日の直前の日曜日を狙って竣工式を設定したのか、たまたまそうなったのか私にはよくわかりませんけど、いずれにせよ2022年の聖霊降臨日は新しい会堂でお迎えする、忘れがたい一日となりそうです。

聖霊降臨日は別名ペンテコステ、ともいいます。ギリシャ語で50という数字を意味している言葉です。ユダヤ教の大切なお祭り、過ぎ越し祭から数えて50日目のことで、ユダヤ教では五旬祭、あるいは七週祭という名前でも呼ばれているようです。過ぎ越し祭は、イスラエルの民がエジプトから導き出されたことを覚えるお祭りですが、この五旬祭は、モーセが律法をさずかったことを覚える祭りです。過越祭と並んで五旬祭はユダヤ教では欠かすことのできない大切なお祭りの一つです。改めて強調することでもありませんが、イエス・キリストの十字架と復活はユダヤ教の過ぎ越し祭の最中におこりましたし、聖霊が降るという出来事もユダヤ教の五旬祭のお祭りの最中におこった出来事です。キリスト教の三大祝祭日のうちの二つ、イースターとペンテコステが、ユダヤ教の三大祝祭日の二つと重なっているということはキリスト教よりもさらに長い歴史を持つユダヤ教に敬意を払うという意味でも覚えておきたいことです。つまりキリスト教はユダヤ教と無関係に発生したのではない、ということです。互いに尊敬の思いを持つことが大事ですし、実際にユダヤ教の学者、つまりラビと、キリスト教の旧約学者が手をとりあって研究するということがあります。このような地道な研究が何十年以上も続けられていることで、色々な角度から聖書が照らし出され、新しい発見があります。今日私たちが母国語で聖書を読み、その理解を助けられているということもこのような学問に生涯をささげている人たちに支えられていることだと感謝をしたいことの一つです。

この聖霊降臨日にも、バベルの塔建設と同じことが起こりました。それまで一つの言葉で話していた弟子達に、外国の言葉が与えられて、次々と異なる言葉で語り始めたのです。詳しくは使徒言行録の2章に記されています。弟子達が言葉を語り始めた日、この日を教会は教会の誕生日と位置づけています。使徒言行録をお読みいただければ分かることですが、教会の組織が、この日まで全く整っていなかったわけではありません。それどころか、12弟子の欠けてしまったユダのぶんを補うために1人を選出したり、彼らは彼らなりに教会を整えようと努力をしていたのです。しかし、そのような人間の手によるものを教会の誕生の日とは位置づけませんでした。あくまで神から言葉をいただいて、福音を語り始めた日を教会の誕生日としたのです。この日、弟子達は外国の言葉を語り始めた。五旬祭にエルサレムにあつまっていた世界各地に住むユダヤ人は驚いたわけです。何故ここで自分たちの国の言葉が聞こえてくるのだろうか?ギリシャ語、アラビア語、その他いろんな言葉が入り混じっていたのです。まさしくバベルの塔と同じことが起こったのです。そしてこの使徒言行録に記された事件は、今日世界各地にキリスト教が伝えられた起源として、語られています。神があの時、様々な国の言葉を与えてくださったから、こうやってヨーロッパからアメリカにわたり、この日本へと福音が届けられた。喜びの出来事として、そのように語られます。

弟子達に様々な国の言葉が与えられたから、弟子達はいろんな地域に出て行って福音を宣べ伝えた。しかしそれほど単純な出来事ではなかったようです。この創世記の書物から示されることは、混乱が起きた、ということです。キリストの弟子達もそうでした。そこには混乱が起きたに違いないのです。事実、弟子達の外国語を聞いたユダヤ人たちは、「これは一体どういうことだ」と言って驚き、とまどったのです。そして、弟子達も大いにとまどったに違いないのです。今までは一つの言葉で、主イエスから教えを乞い、また仲間とともに祈りをあわせてきた。それが突然、一つの言葉ではなくなってしまった。確かに異邦人に福音を宣べ伝えるのには都合がよくなったけれども、自分達の間では言葉が通じ合わなくなってしまった。弟子たちの中で、教会の中で混乱が生じたのです。しかしバベルの町の人たちと弟子達が違ったのは、彼らは神の言葉をいただいた、ということです。唯一なる神の言葉に固く立って、そこから一歩も揺らがなかった。神なき塔を建てるのではなくて、神ご自身が塔をお立てになる。その建設のわざに、1人、また1人と加えられていったのです。そこでこそ、はじめて異なる言葉のもの同士が一つになった。同じ言葉を話していても一つになることができないのではなく、たとえ語る言語が違うとしても、神の言葉によって一つになった。それが聖霊降臨の出来事です。

この日本に住んでいる私たちが、一つの言語で、一つの民になっているかというと、決してそうではない現状があります。私たちもまた、今日において混乱させられている。散らされている民だということができます。しかし、神が私たちの勢力を弱めようとして、そうなさっているのではありません。ただ一つの言葉、神の言葉によって一つとなるために、混乱させられている。たった一つの神の言葉を聞くために散らされている。そう言っても言いすぎではないと思います。だから私たちは神の言葉を聞き続け、また語り続けます。もう二度と、神なき塔を建てることのないように。そして、神ご自身がお建てくださる塔の建設に加わることのできるように。神の言葉に聞き続けます。本日私たちは教会の完成を喜び祝い、次週には聖霊降臨日を迎えようとしています。私たちは傲慢さを神が打ち砕いてくださることを待ち望んで、自分達の言葉ではなくて、神の言葉によって教会が形成されていくことを覚えたいものであります。

<祈り>御在天の父なる神さま。あなたがお建てくださったこの新しい会堂に集い、聖霊降臨日を控え、そして竣工式を間近に控えて、私たちはあなたのみ言葉を待ち望んでいます。どうぞこの瀬戸の地で語るべきみ言葉をあなたが与え、あなたが私たちを1つとしてください。十字架上で裁かれた御子イエス・キリストのお姿から目を背けるのではなくて、喜んで受け入れるものへと私たちを造りかえてください。

あなたが始めて下さった教会建設のわざを、あなたが最後まで成し遂げてくださり、終わりの日を待ち望むことができますように。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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