11月27日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、242(1)231(1)241(1)27です。教会暦は待降節に入ります。

礼拝説教   ゼカリヤ書9:9~10「見よ、あなたの王が来る」(小椋実央牧師) 2022.11.27

アドベント、第一主日を迎えました。今日から一本ずつろうそくに灯をともして、四本すべてにあかりがつくと、いよいよ降誕節、キリストの誕生を祝います。

今年は例年とは違いまして、ちょうど25日が日曜日になるものですから、アドベントを4回お祝いして、それからクリスマスが来る。例年ですとアドベント第四主日とクリスマスの礼拝が重なっていることが多いのですが、今年はアドベント第四主日とクリスマス当日がそれぞれ日曜日が割り当てられているので、例年よりもアドベントの期間が長い、ということになります。

教会歴には3つの大切な祝祭日、クリスマス、イースター、ペンテコステがあるというのはみなさんよく御存じだと思いますが、教会歴そのものが、実はアドベントから、つまり今日から始まっている、ということはあまり知られていないかもしれません。つまりアドベント第一主日、ろうそくの一本目をともす日は、一年の始め、元旦にあたります。教会歴はこの待降節第一主日から、新しい歩みを始めるのです。そしてキリストの誕生であるクリスマス、受難、復活、昇天とキリストの生涯をたどるように教会歴が進んでいきます。ペンテコステの後はしばらく教会の時が続いて、終末にむかって進んでいきます。私たちの現実の時間軸が終末にむかって歩んでいくのと同じように、教会歴もまた終末にむかって進んでいき、そして新しく待降節、アドベントを迎えます。

この教会歴にあわせて、教会ではそれにふさわしい箇所が読まれて参りました。

たとえばイースターにご復活の記事が読まれるのは言うまでもないことですが、この待降節の時期には、旧約の預言書を読むことを多くの教会がならわしとしてきました。待降節に旧約の書物を読むのは、二つの理由があります。一つは過去を振り返るためです。キリストがお生まれになる以前に、どのような御言葉が語られていたのか。イスラエルの民がどのように救い主を待ちわびていたのか、そのことを知るためです。二つめの理由は、未来を知るためです。キリストが再び来られると約束されている今、私たちは何を聞くべきなのか、そのことを預言の書物から聞き取りたいからです。

待降節は2000年前にさかのぼって、キリストの誕生をお祝いすることだけではありません。やがて来られるお方を待ち望む時です。「然り。わたしはすぐに来る。」こうおっしゃったキリストの再臨を私たちはどのような姿勢でお迎えしたらよいのか、そのことを知りたいのです。イスラエルの民が預言の言葉に耳を傾けつつ救い主を待ち望んだように、今私たちも旧約の言葉に耳を傾けて、再び来るお方を待ち望みたいのです。

先ほど、司式者の朗読によりゼカリヤ書のみ言葉が開かれました。1年のうちでゼカリヤ書を開く、という機会はそうしょっちゅうあるものではないかもしれません。しかしこの箇所を読むと、どことなく思いだす場面があります。ちょうど毎週日曜日、横山牧師がマタイ福音書を解き明かしてくださっているので記憶に新しいかもしれませんが、イエスさまの受難の場面。受難週の最初の日に、イエスさまがろばにのってエルサレムに入られた、という時にこのゼカリヤ書が開かれることがあります。おそらく毎年のようにどこの教会でも、このゼカリヤ書の言葉が、イエスさまがろばに乗ってエルサレムに入ることによって成就したのだと語られているのだと思います。そういう意味では、わりとなじみのある箇所とも言えるかもしれません。ただ、自分自身振り返ってみてもゼカリヤ書そのものを説教する、という経験は今回が初めてでして、自分で本日の箇所を選んでおきながら、一体どこから手をつけたらいいのか、少し途方にくれてしまうところもありました。

そもそも、ゼカリヤという人間が何者なのか、という点ですが、以前私が説教さえていただいたネヘミヤ記と少し関係があることがわかりました。ネヘミヤ記は、バビロン捕囚後の話ですが、ペルシャからイスラエルの人々が帰ってきて、エルサレムに神殿を再建する、という話でした。その時に、エルサレム神殿再建の前後に、イスラエルの人たちが何グループかに別れてエルサレムに帰ってきます。帰ってくる、といっても大半がエルサレムを故郷に持たない、ペルシャで生まれた人たちなのですが、自分たちの信仰のルーツである町、エルサレムへと旅立ちます。目的は神殿を建て直すのため、言い換えれば自分たちの信仰を再構築するため、もっと踏み込んだ言い方をすると、諸外国で育った自分たちの国民性を、しっかりとその土地に根付かせてもう一度国を立て直すため、志ある人々が荒れ果てたエルサレムへと帰ってくるのです。そのエルサレムに帰ってくる祭司のリストの中に、このゼカリヤの名前があります。つまりゼカリヤはどういう形でかはわかりませんが神殿の復興に携わり、新しい神殿で人々を励ます言葉を語った祭司なのです。

ゼカリヤ書は前半と後半に別れていて、前半は神殿再建中のメッセージ、後半は神殿完成後のメッセージとなっています。そして今日お読みした9章はちょうど後半がはじまる部分だと言われています。真新しい神殿ができて、そこに集められた民にゼカリヤが語った言葉。ようやく懐かしいエルサレムに帰ってきて、神殿もあたらしくなって、心機一転、新しい気持ちで頑張ろうという時にゼカリヤが語ったのが、このゼカリヤ書9章の言葉です。私たちもちょうど2022年に新しい会堂を与えられて、待降節第一主日、新しく教会歴が始まる時に、このイスラエルの人たちと共に神の前にへりくだって、同じみ言葉に耳を傾けたいと思います。

ゼカリヤの言葉は強い命令の言葉から始まります。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。」踊りなさい、という命令の言葉。踊るという言葉に大いにという強調がなされていて、とびあがれ、という翻訳もありました。とびあがって喜びなさい、という命令の言葉です。何故とびあがるほど喜ばなければならないのか。それはあなたの王となってくださる方が、王自ら立ち上がってきてくださるからだ。あなたが危険な思いをして、貢物を持って、自らの救い主である王を探しに行くのではなくて、王自ら危険を冒して、全く王にふさわしくないような姿で来られるからだ。王にふさわしくない姿、というのはどのような姿かというと、全くみすぼらしいロバの子に乗ってやってくる。勇ましく、きらびやかに軍馬にまたがってやってくるのではなくて、かわいらしいロバの子に乗って、のんびりと、しかし一歩一歩確実にあなたのもとに来てくださる。猛スピードで走り去ってしまう、ということもありません。歩きながら話しかけることのできるぐらいのスピードで、ゆっくりとやってくる。

私たちの王になってくださる方はなんの武器も持ってはおられません。戦車も弓もありません。丸腰です。弱いのです。全く強くはないのです。このお方が持っているのは、「平和を告げる」という祝福の言葉です。言葉は受け入れない人にとってはなんの役にも立ちません。言葉だけではお腹は膨れないし、お金にかえることもできません。攻撃を受けた時に、言葉だけでは全く身を守ることもできません。しかし、祝福の言葉はくずおれていた人を立ち上がらせ、止むことのなかった涙をぬぐう力があります。祝福の言葉には怒りを鎮め、国と国との戦いを放棄させる力があります。私たちの王であるキリストの言葉は海を超え、地の果てにまで及びます。キリストの言葉が地上の隅々にまで告げ知らされる時、あらゆる国の人々が膝をかがめて神を礼拝し、平和が訪れるのです。だからあなたがたは大いに喜びなさい。喜び踊りなさい。あなたの救いはどこか見えないところに、どこか知らないところに隠されているのではなくて、むしろキリストご自身が私たちに歩み寄ってくださるのだ。私たちは喜ばないわけにはいかないのです。

2000年前、1人の幼子が自らが持てる全てのものを手放して天を離れ、危険な旅を犯してこの地上に生まれてくださいました。母であるマリアは姦淫の罪を問われて殺されてもおかしくはなかったし、時の権力者、ヘロデ王に殺害されてもおかしくはありませんでした。この幼子は貧しい馬小屋に生まれて、敵対者に弓をひくこともなく、戦車を向けることもなく、ただ祝福の言葉を語り続けることをよしとして、執り成しの祈りを祈りながら、私たちの罪をお引き受けになりました。

「見よ、あなたの王が来る。」2022年、私たちは与えられた新しい会堂で礼拝を守りながら、救い主のご降誕をお迎えしようとしています。同時に、終わりの時に来てくださる救い主をお迎えしようとしています。3年目となったコロナ禍での生活の中で、ロシアによるウクライナ侵攻に心を痛めながら、北朝鮮によるミサイル実験のニュースを聞きながら、日々の生活は重苦しいものとなってしまいがちではありますが、しかし私たちは私たちの救い主であるイエス・キリストを喜び祝ってお迎えすることに心を注ぎたいと思います。そしてイエス・キリストが告げる平和の言葉が、やがてこの地上を満たし、神の国の完成へと導いてくださることを信じて、2022年の待降節、そしてクリスマスをご一緒に祝って参りましょう。

<祈り>御在天の父なる神さま。2022年の私たち歩みにアドベントの恵みをお加えくださいましてありがとうございます。苦しくて、顔を上げることもできないこともあります。しかし力をふりしぼって、あなたを見上げさせてください。イエスさまのご降誕の祝いに1人の残らず与らせてください。1人1人が、喜びのうちにイエスさまをお迎えできますように、整えてください。イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

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