1月1日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、18(1)197(1)226(1)91(1)です。元旦礼拝です。

礼拝説教         ローマ12:1~8「新しい生活」      2023.1.1

 2022年が終り、2023年になりました。今日は、1月1日です。2023年の初めの日です。2023年はどのような歩みになっていくのでしょう。不安と期待が混じっている思いです。2022年を振り返ってみると、新型コロナウィルスの影響で、教会の活動を制限することが続きました。いつ、礼拝や祈祷会を閉じなければならないかと不安の中にありました。そして、教会堂の増改築工事です。工事が進められていました。新型コロナウィルスの影響もあり、また工事の完成の予定がしばしば伸びて、本当に完成するのだろうかと不安の中にありました。それでも、5月3日には、予定していた結婚式も天候に恵まれて行うこともできました。また、7月24日は、献堂式を多くの方々を招き、行うこともできました。本当に、神に教会の皆様に守られて、完成することができました。本当に感謝する時でした。

 そして、新会堂になって初めて、新しい年を迎えました。この2023年はどのような教会の歩みが始まるのだろうと考えています。私自身としては、基本を大切にしていく、これに尽きると考えています。教会の活動の中心である礼拝と祈祷会を守っていくということ、教会員の交わりを大切にしていくということ、そして、新しい方々をあたたかく受け入れるということです。特別なことではなくて、教会としての基本的な歩みを大切にしていくことです。

 そんな思いの中で、今日の聖書をローマ信徒への手紙12章の最初の部分を選ばせていただきました。説教の題を「新しい生活」としました。本当なら「神の憐れみによる新しい生活」とした方がよかったと思いました。ローマの信徒への手紙は、使徒パウロによって書かれたもので、キリスト教の教理をまとめているといわれています。特別という表現はおかしいかもしれませんが、とても大切な書です。ローマの信徒への手紙は、パウロが、コリントでローマの教会へあてて書かれたものです。パウロは当時の世界の半分を伝道して歩きました。3回に渡る伝道旅行をしていきました。パウロは、大きな夢を持っていました。実現することはありませんでしたが、残っている世界の西側に伝道していきたいと願っていました。そのために、パウロはローマの教会を拠点にして、伝道して行こうと考えていたのです。すでにローマには、キリストの教会の交わりがありました。そのローマの教会に手紙を書いています。その内容は、パウロが考えるキリスト教の教えです。

 ローマ書は大きく3部に分かれています。簡単に紹介しますと、1章から3章20節までは、人間の罪について、3章21節から、11章までが、人間の救いについて、12章からが、キリスト者の生活についてです。もっとまとめてみると、1章から11章が、人間の救いについて、12章からが、キリスト者の生活についてです。パウロはまず、私たち人間がいかに、罪が深いのかを語っています。そして、自分たちの力では、その罪を贖うことができないことを書いています。次に、パウロは、その罪の満ちた人間が、どのようにして救われるのかを書いています。それは、イエス・キリストの十字架と死と復活によって、人間の罪は贖われ、救われて、神の子とされて、永遠の命を与えられるということです。神から離れ、罪の満ちて生きている人間、その罪によって死が入って来て、人間は滅びるしかありませんでした。人間自身の力では、その罪の現実の前になすすべがありませんでした。

ローマ3:19~20

さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

 ここで、パウロが書いているように、人間は律法によって、罪人であることが分かるといっています。律法によっては、誰一人、神の前で義とされることはないのです。律法の働きは、人間に罪の自覚を生じさせることでした。そのような人間に、神からの一方的な恵みによって、救いの手が差し向けられるのです。それが、イエス・キリストの十字架の死と復活です。パウロは次のように語っています。

ローマ3:21~24

ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

 罪の中にある人間、その人間に対して、神は、イエス・キリストによって、罪の赦しを与えてくださったのです。神の一方的な恵み、神の憐れみです。神が、私たち人間の罪を、イエス・キリストの十字架を通して、完全な贖いと救いを与えてくださったのです。私たち人間は、この神の一方的な憐れみを受けることによって、罪の赦しを、神の国へと導かれ、永遠の命を与えられているのです。そして、今日の聖書の箇所になります。今日は、特にローマ書12:1のみを深めていきたいと思います。

ローマ12:1

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

 前にもいいました通り、12章からはキリスト者の生活について書かれてあります。パウロが考えているのは、ローマの教会の信徒たちです。信仰者、キリスト者です。「こういうわけで」といっていますが、それは、ローマ書の1章~11章までの、人間の罪と人間の救いについて、イエス・キリストの十字架の救いを受けているのです。「兄弟たち」とは、ローマの教会の信徒たちです。キリスト者として、どう生きるべきかが書いてあります。

 キリスト者として、礼拝を守らなければならない、献金をしなければならない、キリスト者としてふさわしい生活をしなければならないと考えてしまいます。そのようにして意識して、生きることも大切なことだと思います。かつて、自分が若い時に関わっていた教会は、倫理的に厳しい教会でした。お酒を飲んではいけない。タバコを吸ってはいけない。キリスト者としては恥ずかしくない生活をしなければならない。もちろん、そのことは大切なことだったと思いますが、〇○をしなければいけないというものでした。今でも、私たちが真剣にキリスト者として正しい生活をするように努力することは必要なことだと思います。でも、それは、最も大切なことを見失っているのです。それが、イエス・キリストの十字架の恵みです。

 キリスト者として、正しく生きなければならないとではなく、キリスト者として、神の憐れみによって、自分の罪を自分で解決することができなかったことを忘れることなく、神の一方的な憐れみによって、罪なき者とされた。復活の希望が与えられ、永遠の命が与えられている、この恵みに感謝して生きるということなのです。神の一方的な憐れみによって、私たちキリスト者は、神に感謝して、喜んで、生きていくということです。この信仰理解はとても難しいものだと私は思います。私たちは、時々、自分の本当の姿を忘れてしまうのです。そして、自分は正しい者であるかのように振る舞い、そうではない人を批判し、否定してしまう場合が多いのです。人間の弱さだと思います。

 神の一方的な憐れみによって、私たちはキリスト者として、神に感謝して、神の憐れみに喜んで、生きていくのです。その具体的な例は、この後のローマ書12章以下に、詳しく書かれてあります。私たちは、自分の罪の自覚を忘れることなく、また、神による一方的な憐れみ、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、救われた者とされたことを覚えるのです。礼拝を通して、イエス・キリストの十字架を仰ぐことによって、そのことを確認しつつ、キリスト者として、神の救いに預かった者として、感謝と喜びの中で生きていくのです。この2023年も、そのようなキリスト者として歩んで行く者でありたいと心から願うのです。

祈り、神よ。新しい年の最初の日に、このように神を礼拝することができましたことを、心から感謝します。イエス・キリストの十字架によって、救われた者として、喜んで感謝して生きていくことができる者にしてください。今の救いにあるのは、神の一方的な憐れみによることを決して忘れることがないようにしてください。私たちはとても弱い者です。どうか、自分の弱さを、自分の罪を忘れることなく、いつもイエス・キリストの十字架を見上げて、信仰生活を送ることができるように、守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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