6月6日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、497(1)532(1)です。教会の工事が続いています。工事の安全をお祈りください。

礼拝説教    マタイ16:21~28「ペトロを振り向かれる主」   2021.6.6

 新しい1週間が始まります。そして、1週間の初めの日曜日に、神を礼拝することができますことを心から感謝します。この1週間も喜びと感謝に溢れたものとなりますように祈ります。

 今日は、イエス様とペトロのやり取りをみながら話を進めていきたいと思います。イエス様は、いよいよガリラヤからエルサレムを目指して歩みを始めようとしています。イエス様がエルサレムに行くと言うことは、十字架につくと言うことです。エルサレムを目指す前に、イエス様は弟子たちに自分のことを尋ねています。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と。するとペトロがすぐに「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。するとイエス様は「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と答えます。ペトロの答えに、イエス様は大変満足しているようです。

 そして、今日の聖書の箇所です。ここで、イエス様は初めて弟子たちに、自分の本当の目的を話します。「自分はエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっている」と。すると、ペトロはイエス様をわきにお連れして、いさめ始めます。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と。イエス様は振り向いてペトロに言われます。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と。それから、弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と、言われます。

 このイエス様とペトロとのやり取りは非常に緊張する場面です。ペトロがイエス様のことを「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた時には、「ペトロ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを示したのは、人間ではなく、神だ」と言い、とても喜んでいました。しかし、イエス様が初めて、自分の受難予告をした時、つまり、エルサレムでの十字架の死を語った時に、ペトロは、イエス様の発言を否定し、「主よ、飛んでもないことです。そんなことはあってはなりません」と言った時に、イエス様は振り向いてペトロに「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と、強く言います。

 このイエス様とペトロのやり取りを理解するためには、「メシア」に対する考えを示す必要があります。多くのイスラエルの人々、弟子たちも同じですが、「メシア」に対して、簡単に言えば、「強い王、解放者」と理解していたのです。イスラエルの人々の歴史はとても辛いものでした。ダビデやソロモンの時代には、栄えていた時もありましたが、他の時代は、他民族の支配下にあり続けました。イエス様の時代は、ローマ帝国の支配下にあったのです。一方で、イスラエルの人々は、神から特別に選ばれた民であると言う自覚がありました。他民族からの支配、神の民としての誇り、このような矛盾の中におかれていたのです。イスラエルの人々は、今は、ローマ帝国からの支配を受けているが、メシアが現れて、自分たちの王となってくれて、ローマ帝国と戦い、勝利し、自分たちの王国をつくると目標をはっきりと持っていました。そのような時に、イエス様が登場したのです。イエス様の行動、多くの奇跡を見て、この人こそ、自分たちが待ち望んできたメシアであると思うようになっていきました。イエス様の弟子たちもそのようなメシアとして、イエス様を期待して、従っていったのです。

 今、日本に住んでいますと、平和の中にあると思います。このような平和な状況では、当時のイスラエルの人々の思いを理解することは困難なことかもしれません。長く、他民族からの支配を受け続けている。この先もずっと同じ状況が続くと考えられると、何とかこの状況を変えたいと考えるのは当然なことだと思います。ローマ帝国に対抗する無謀に思うことですが、少しでも希望があるなら、それにかけてみたいと思うのです。イエス様に従っていけば、この状況を変えることができるかもしれないと弟子たちは願い、従ってきたのです。ペトロにすれば、イエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた意味は、「あなたは私たちの王です。どうか、私たちのリーダーとなって、ローマ帝国と戦ってください」と言うものです。ペトロもイエス様と一緒になって、命をかけて、ローマ帝国と戦う気持ちになっていました。

 ペトロにとって、エルサレムに行くと言うことは、剣を持って、ローマ帝国と戦うことを意味していたのです。そして、イエス様の口から出た言葉は、ペトロにとって信じられないものでした。「エルサレムに行って、十字架で死ぬことが目的である」と言うことです。ペトロにとって、それはとんでもないことであり、そんなことはあってはならないことでした。

 イエス様はメシアです。キリストです。それは、すべての人々の罪を背負って十字架につけられて殺されることでした。3日目に復活されます。イエス様の言葉の意味を理解できる弟子たちは1人もいませんでした。ペトロに理解せよと言っても無理な話だと思います。ペトロが考えるメシアとイエス様が考えるメシアは、これほど違っていたのです。これからイエス様も弟子たちもエルサレムに向かって、歩みを始めて行きますが、イエス様は弟子たちの無理解に悩み、弟子たちはイエス様の言葉に悩みながら、歩んで行くのです。

 イエス様にとって、メシアを目指すことは簡単なことではありませんでした。マタイ4章に、荒れ野のサタンの誘惑の記事がありますが、サタンは、イエス様の十字架をさせないように迫って来ました。今日の聖書の箇所で、イエス様にとって、ペトロの言葉は、サタンの言葉でした。愛する弟子の言葉を通して、十字架を避けようとしたものだったからです。イエス様が十字架につく前にゲッセマネで祈られました。この祈りは、イエス様の激しい心の葛藤を表しているものです。やがて、イエス様は逮捕されて、1人孤独に十字架の道を歩んで行かれます。

 ペトロはイエス様に対して、3度も自分は決してイエス様を裏切ることはしないと強く言いました。しかし、実際は、3度もイエス様のことを知らないと言ってしまったのです。

ルカ22:61~62

主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは3度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

 イエス様はペトロに対して「振り向いて」見つめられます。実は、今日の聖書の箇所であるマタイ16:23「イエスは振り向いてペトロに言われた」とあります。イエス様がペトロを振り向いて見つめられる、イエス様のまなざしと言うことですが、どのようなまなざしだったのでしょう。きっと愛に満ちたまなざしだったと思います。このまなざしによって、ペトロは立ち上がることができ、やがて、使徒として、イエス様の弟子として歩んでいくのです。ペトロの活躍は、使徒言行録を読めば分かります。

 イエス様がペトロに対して振り向かれたこと、それは、私たち1人1人に対して振り向かれているのです。イエス様は、私たち1人1人に、振り向かれ、愛に満ちたまなざしを注いでくださっているのです。

祈り 神よ、礼拝を守ることができましたことを感謝します。イエス様が私たち1人1人に対して振り向いてくださること、愛のまなざしをむけてくださることを知り、深く感謝します。どのような時でも、あなたのまなざしを忘れることがありませんように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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