1月23日の礼拝の内容です。

clear blue shore 礼拝
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讃美歌は、194(1)280(3)です。

礼拝説教        マタイ22:1~14「天の国への招き」    2022.1.23

 新しい1週間が始まりました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝したいと思います。神のみ言葉を受けて、それぞれが良き1週間を過していきたいと願います。

 イエス様はエルサレムに入られました。そして、エルサレムの神殿の管理者であった祭司長や民の長老たち、律法学者たちと論争していきます。イエス様は彼らに3つのたとえを話しました。今日の聖書の箇所は、3番目のたとえです。「婚宴のたとえ」です。このたとえは、「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」として話されます。「天の国」は、どのようなところか、イエス様はいろいろな場面で、話されてきました。「天の国」とは、神が私たちと一緒にいてくださるところです。私たちは、それぞれ人生の旅をしていますが、死んだ後に行くべき先です。私たちが、行くべき場所です。

 イエス様はたとえを話されます。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」と。そして、王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼びました。イエス様の時代では、婚宴を開催する時は、事前に開催することだけを伝えます。開催日時はその時は伝えませんでした。そして、婚宴を開催する準備ができた時に、改めて、人を送り、来てくださいと招くことになるのです。王が王子の婚宴の開催し、招待されたことはとても大きな責任があります。通常ならば、行かないという選択肢はないように考えます。しかし、家来たちの呼びかけにも、招待された人々は行こうとしませんでした。王は親切にも再度、別の家来たちをおくり、「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」と、伝えさせました。王から二度にも渡る呼びかけがありました。これでは、行かない選択はないと思います。しかし、招待された人々は、それを無視し、1人は畑に行き、1人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまうのです。王の二度に渡る呼びかけにも完全に無視してしまいます。

 王が王子の婚宴を開催し、招待した人々が二度目の呼びかけにも来ないことに激しく怒り、軍隊を送って、この人々を滅ぼし、その町まで焼き払ってしまったといいます。そして、王は再び家来たちにいいます。「婚宴の準備ができているが、招いておいた人々はふさわしくなかった。だから、町の大通りに行って、見かけた人は誰でも婚宴に連れて来なさい。」と。そこで、家来たちは、大通りに出かけて行って、見つけた人は善人でも悪人でも、皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになりました。なにかやけくそのような感じがしないでもないですが、とにかく、せっかくの王子の婚宴なので、多くの人々で祝いたいから、そのようにしたのでしょうか。

 王が王子の婚宴の席で、集まっていた多くの人々を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が1人いました。王は、この人に「友よ。どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのか」と尋ねます。町の大通りにいた人々は、急な王子の婚宴の席に呼ばれて来たのですから、礼服を着ることができないと思うかもしれません。実は、このような時には、王は、呼ばれた客に、王の方から婚宴の礼服を準備して、用意するものだということです。ですから、呼ばれた人々には、すべて婚宴の礼服の用意がなされていたということになります。ですから、この人が礼服を着ないで、婚宴に入ったということは、あえて、自分の意志で、婚宴の礼服を着なかったということになります。王は、この人に、王子の婚宴のために、すべての招待した人々のために、礼服を用意させたのに、あなたはなぜ、その礼服をあえて着ないで、王子の婚宴に出てきたのかと問うているのです。王の問いかけに、この人は黙っていました。すると王は、側近たちに命じて、「この男の手足を縛って、外に放り出せ」と、いいます。そして、たとえの最後に、イエス様は「招かれる人は多いが、選ばれる者は少ない」といっています。

 このイエス様が語られた天の国のたとえですが、王は神であり、王子はイエス・キリストです。王子の婚礼とは、イエス様が地上に来られたことを意味します。王子の婚礼に招かれた人々というのは、イエス様の目の前で論争している祭司長や民の長路たち、律法学者たちということになります。イエス様の呼びかけに対して、拒絶し、批判してくることを、招待に応じなかったといっています。そして、王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまったというのは、イスラエルの指導者たちのことをいっているのです。神が送った預言者たちのことです。王は怒り、軍隊を送って、この人々を滅ぼし、その町を焼き払ったとなっています。それは、70年にローマ軍がエルサレムを包囲し、町を破壊し、多くの人々が殺されていったことを指すのでしょう。

 話は急に変わって、王が町の大通りに出て行って、見かけた人々は誰でも婚宴に連れて来なさいと命じています。見かけた人々、善人も悪人もとなっています。これは、罪人といわれた人々であり、徴税人や娼婦たちを指すのです。この人たちは、イエス様を受け入れた人々であり、悔い改めることができ、婚礼に招かれています。

 このイエス様が語られた「婚宴」のたとえですが、王が王子のための婚宴を開催し、人々を招待されました。このたとえが強調していることは、王がすべての人々を招いています。また、招待した人々が来ない時にも、忍耐強く招待し続ける姿がありました。しかし、招待した者が強調されているではなく、招待された人々が、どう応じたのかが強調されているのです。最初に招待された人々は、招待を拒否したしたために、滅ぼされ、町は焼き払われてしまいました。次の招かれた町の大通りにいた人々ですが、この人々には、王から婚宴の招きと礼服の用意がされていました。招かれた人々は、婚宴に参加すると共に、礼服を着て参加することが求められています。その意味は、王子の婚宴を心から喜び祝うことが求められているのです。

 この招かれた人々ですが、実は、私たちも含まれています。神は私たちを天の国に招いてくださっています。教会は、天の国に招かれた人々が集まっているところです。王子の婚宴という喜びの場所、その場所に集うということ、招待された人々が礼服を着て参加しているということは、心の問題を表現しています。王は、婚礼の礼服を着ていない人に向かって「友よ」と呼びかけています。これは、神から、私たちも「友よ」と呼びかけられているのです。私たちの教会生活、信仰生活が問われています。教会に集う私たちは、天の国への招待状をいただいています。それは、喜ぶべきであり、感謝すべきことです。

 しかし、現実の私たちの生活は、喜びや感謝に遠く感じて、歩んでいるのです。いろいろなことに悩み、苦しみ、嘆き、つぶやいてしまっています。神からの恵みを忘れて生活しています。でも、教会に集うということは、天の国への歩みが供えられているのです。神が共にいてくださる、復活の命が与えられている、永遠の命が与えられているのです。私たち1人1人に対して、神は「友よ」と、呼びかけてくださっています。これ以上の喜び、感謝はありません。もう一度、顔をあげて、神の恵みを受け取りましょう。

祈り 神よ。あなたを礼拝する時を与えてくださり、ありがとうございました。かつて、教会で礼拝することが当たり前だと思っていました。この新型コロナウィルスの脅威は、そうではないことを教えてくれました。今日の礼拝を心から感謝します。私たち1人1人が、あなたから天の国への招きを受けています。やがて、あなたと共に天の国での交わりを考えます。そのことを受けとめ、心からあなたを讃美することができますように、導いてください。これらの願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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