5月9日の礼拝の内容です。

礼拝

礼拝説教       マタイ16:5~12「神からの教え」        2021.5.9

 新しい1週間が始まりました。週の初めの日曜日に、礼拝を守ることができますことを神に感謝します。どうか、この1週間も喜びと感謝にあふれた時となりますように心から祈るのです。

 イエス様は弟子たちに言います。「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい」と。それは、彼らの教えに注意しなさいと言うことです。イエス様の働きが書かれてある4つの福音書を読んでいるとイエス様と律法学者との対決が書かれてあります。特に、ファリサイ派の人々との対決です。実は、イエス様が活動を始める時に、その対決は始まっています。

マタイ4:5~7

次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

 イエス様の荒れ野の誘惑の場面です。イエス様が悪魔から2番目の誘惑を受けています。イエス様は悪魔に神を試してはならないと答えています。この場面は前回の内容の、ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエス様を試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと言っているのです。これも、神を試すことになります。イエス様と律法学者との対決ですが、実は、背後に、大きな力が働いているように見えるのです。悪魔、神と敵対する者と言われるものです。どのように考えればいいのか難しいことですが、考えることも必要だと思います。

 次のマタイ12:15~28までは、イエス様がいよいよガリラヤからエルサレムに向かってその旅を始めることが書かれてあります。イエス様は弟子たちに、自分を何者だと言うのかと問うています。それにペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。するとイエス様は「ペトロ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。あなたに天の国の鍵を与える」とまで、言っているのです。そして、イエス様は弟子たちに初めて、自分の本当の目的について話します。それは、エルサレムに行くのは、十字架について死ぬためであると言うことです。そのことを語って、すぐにペトロは、イエス様をいさめ始め「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と、言います。イエス様はペトロに「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と、強く否定します。

 イエス様は最初のペトロの答えに、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言い、次に、「サタン、引き下がれ。神のことを思わず、人間のことを思っている」と、答えています。ペトロの中に、神と悪魔が一緒にいるような感じです。人には見えない力があるのです。

 神の働きは、イエス様を十字架に導くものであり、悪魔は、イエス様は十字架から離すものです。イエス様は、絶えず、この悪魔の働きを意識し、戦っているのです。この悪魔は、人間を、このイエス様の十字架から遠ざけようと働いています。

 律法学者のことについて、考えてみます。イスラエルの人々にとって、一番辛いことはバビロン捕囚でした。約束の地に住んでいた人々は、神の守りの中で、神が共にいてくださるので、永遠に、約束の地に住むことができると信じていました。それが、バビロニアが現れ、イスラエルの地と人々を襲い、破壊し、多くの人々を、バビロンに奴隷として連れて行ったのです。このバビロン捕囚の出来事は、神から見捨てられた経験となりました。どうして、自分たちは、神の民であったのに、神は、自分たちを見捨てられたのか、それは、自分たちが神に従っていなかったからだ。神を信じていなかったからだと思い、深く反省をするのです。

 その深い反省の中から、イスラエルの人々の中から、律法学者が登場してきました。神の教えである律法を守ろう。律法をしっかりと知り、学び、生活の中で実践していこうとなっていったからです。律法学者のスタートは、そのような悲しい辛い経験の中にありました。その辛さを乗り越えるために、神と真剣に向き合おうとしました。律法を真剣に学び、そして人々に教えました。律法学者こそ、律法を生活の中で実践して行こうとしました。律法は十戒を中心としますが、とても大らかなものでした。細かいことまでは言っていないのです。それで、律法学者は、自分たち自身で、細かい規則を作っていきました。更に、その上に、細かい規則を作っていったのです。その内容は、日々の生活の中で、どのように実践するかというものでした。

 ファリサイ派の人々は、特に、律法を守ることに熱心でした。律法を守ることは大切なことでした。ところが、守ることだけに熱心になりすぎていってしまったのです。安息日に、病人や障害のある人を癒すことに対しての対決の場面が何度もありました。安息日には仕事をしてはならないからです。仕事とは何かを、律法学者は細かく決めていました。律法を守ることだけに力を入れ過ぎて、大切な部分を見落としてしまっていたのです。残念ながら、そのことを律法学者は受け止めることができませんでした。

 人間の罪とは何かと考えます。罪は、人間が神になることです。ファリサイ派の人々は、律法を守ることは神の御心の適っていると信じていました。そうなのですが、熱心さの中で、自分たちは神の教えを守っている。自分たちは神から選ばれている。神に救われていると思っていました。イエス様はファリサイ派の人々を公然と批判しました。それは、ファリサイ派の人々にすれば、自分たちを批判することは、神を批判することだと思うことになりました。神を信じる中で、人は自分が神になってしまうと言う罪を犯すことになっていくのです。きっと背後には悪魔の働きがあるのです。

 イエス様は弟子たちに、ファリサイ派やサドカイ派の人々の教えに注意しなさいと警告しています。このファリサイ派の人々の歩みから、私たちは学ぶことができます。私たちは決してファリサイ派の人々とは違うと言うことはできません。いつでも、そのようになってしまう恐れがあることを知るのです。

私たちも神への熱心さの中で、自分たちが神となってしまい、罪を犯してしまうのです。本当に弱い存在です。悪魔はいつも近くにいて、その隙を狙っているのでしょう。

 イエス様は、ファリサイ派やサドカイ派の人々に対して、厳しく対応しています。しかし、その心の中では、彼らの救いを望んでいます。厳しく対応する中で、本当のやさしさがあるのです。本当の愛があるのです。

ルカ23:34

父よ、彼らをお赦しください。自分で何をしているのか知らないのです。

 イエス様が十字架の上で語られた言葉です。まさしく、ファリサイ派やサドカイ派の人々のために、神に祈っています。この祈りの中に、私たちも含まれています。私たちはいつでも簡単に、イエス様の十字架から離れてしまいます。本当に弱く罪深いのです。そのような私たち自身の弱さを受けとめ、どのような時でも、イエス様の十字架のみを信じ、従って行くことができますように、祈りましょう。

祈り 神よ、礼拝を守ることができましたことを、本当に感謝します。どうか、これからも礼拝を守ることができますように、守り導いてください。イエス様の警告を受けとめ、自分の弱さを知り、ただイエス様の十字架を見上げて、信仰の道を歩んで行くことができますように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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