7月23日の礼拝の内容です。

礼拝

7月23日の礼拝の内容です。讃美歌は、280.470.484.510.27です。午後、教会コンサートが行われます。

礼拝説教      使徒3:17~20「慰めの時が訪れる」    2023.7.23

 新しい1週間が始まります。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から神に感謝したいと思います。この礼拝を通して、私たち1人1人が、よりよい1週間の歩みをすることができますようにと祈ります。

 先週の木曜日から、愛知国際病院ホスピスでのチャプレンとしての働きを再開することになりました。約3年前に、新型コロナウィルス感染症の拡大と共にチャプレンとしての活動を中止することになってしまいました。これからは、毎週木曜日の午後、13時30分から16時30分までが活動時間になっています。教会の皆様にも、この働きのことを知っていただき、覚えて祈って支えていただきたいと願っています。ホスピスはガン末期の方が入院されています。多くの方が、ここで人生の最終章を過されます。自分の人生の最後と向き合うことになります。自分の命と死を見つめること、久しぶりにチャプレンとしての活動を再開して、思うことはスタッフの大変さです。もちろん、一番辛いのは、入院されている方です。そして、その家族の方々です。その日も、1人の方が退院されていきました。これからご自宅に戻られるということでした。

 私たちの教会でも最近、1人の方を天に送りました。約2週間近く、家族が一緒に病室で過ごされていました。朝早く、電話がかかり、病院に向かいました。そして、病院から、教会に戻って、葬儀を行いました。その時のことを思い出してしまいました。考えてみれば、人は生まれて生きていきます。そして、最後は死を迎えることになります。人が死んでいくということ、それは私たちにとって、大きな問題であります。大きな課題です。私たちは元気で過ごしている時に、死について考えることはしません。しかし、身近な者の死に会う時には、どうしても、人の死について、自分の死について考えていくのです。いつかは、自分にもその時はやって来るのです。

 人の死、または自分の死について考える時に、ここで宗教の役割が求められていくのです。人の知恵では、乗り越えることができない死の問題を、宗教が解決していくのです。人の死の時に、宗教が関わってくるのは、そこに理由があります。

 礼拝では、使徒言行録を読んでいます。新約聖書の4つの福音書を通して、イエス・キリストの働きのことを書いています。イエス・キリストがエルサレムで、十字架につけられて殺されてしまいました。そして墓に葬られ、3日目に墓の中から復活してくださったのです。復活されたイエス・キリストは、弟子たちと40日間共に過ごされました。そして、神のみもとに帰って行かれたのです。そして、使徒言行録の時に、聖霊が下ったのです。神の力である聖霊が下ったことによって、イエス様の弟子たちは大きく変っていきました。その一番大きな変化は、イエス・キリストの十字架の意味を知ったことです。神の救いの業を知ったことです。聖霊降臨のことは、とても大きな出来事でした。この時に、教会が誕生し、イエス様の弟子たちによって、本格的に教会の活動がスタートしたのです。

 聖霊を受けたペトロが、エルサレムの大通りに出て、説教を始めていきます。説教を聞いた人で、その日には3000人が教会に加わったと使徒言行録の著者ルカは書いています。ペトロたちの手によって、奇跡も行われました。その奇跡というのは、神殿の入り口の1つである美しい門の側にいた生まれながらに足の不自由な男が癒されたことです。生まれた時から足が不自由だった男は、もちろん、生まれた時から自分の足で歩いたことはありません。それが、ペトロと出会って、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じると、するとたちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出したのです。

 この奇跡を目撃した人々は、驚いています。そして、この奇跡の力はどこから来るのかということで、ペトロが再び、説教をしています。ペトロはいいます。この奇跡の力は、私たちの力ではなく、神の力だ。イエス・キリストの力だといいます。あなたがたは、このイエス・キリストをピラトに引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前で拒みました。イエス様を十字架にかけて、バラバを赦すように要求しました。あなたがたが、イエス・キリストを十字架にかけて殺してしまったのです。しかし、神はイエス・キリストを死者の中から復活させてくださったのです。私たちはその証人です。生まれつき足の不自由だった男を完全に癒したのは、このイエス様の名です。イエス様の名が、あなた方の目の前で、この男を完全に癒したのです。

 このイエス・キリストの十字架のこと、死者からの復活のこと、特に、目の前にいる人々に向かって、ペトロは、イエス・キリストを十字架につけて殺してしまった責任を追及しようとしています。その罪の追及をペトロは次のようにいいます。

使徒3:17

ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためだったと、わたしには分かっています。

 このペトロの言葉は、とても大きな意味を持っています。それは、すべての人々が、イエス・キリストの十字架の本当の意味を知らなかったといっていることです。知らなかった人の1人にペトロも入っています。もちろん、イエス様を十字架につけた人々もです。そして、ここにいる私たちもです。すべての人々は、だれもが、イエス・キリストの十字架の意味を知らなかったのです。イエス様は十字架の上で、知らなかった人々のために祈っています。

ルカ23:34

そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分で何をしているのか知らないのです。」

 ペトロがいっているように、また、イエス様が十字架上で祈ってくださったように、無知であることでゆるしてくださるのです。ここには、神の大きな赦しの愛があることが分かります。私たちは感謝して、このペトロの言葉を受け取りましょう。しかし、ここからは違います。今や、ペトロの言葉を聞いている人々は、イエス・キリストの十字架の死を理解することができたはずです。だから、もう知らないでは通らないのです。知ってしまったのです。イエス・キリストの十字架の意味をです。罪の赦しとしての十字架です。私たち1人1人に、イエス・キリストの十字架を通しての、復活の命のこと、神の国のことがはっきりと示されています。

使徒3:19~20

だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。

 人が生きることと死んでいくこと、人の死と向き合う時に、イエス・キリストの十字架の意味、神の救いの意味を理解するのです。ここに死を乗り越えるものがあるのです。ここに本当の希望があります。本当の喜びがあります。ここに私たちにとって、本当に慰めの時が訪れたのです。私たちはもはや悲しまなくっていいのです。絶望をすることがないのです。神の愛が、私たちに大きく注がれているのです。

祈り 神よ。あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。あなたが、御子イエス・キリストにおいてしてくださったこと、人が死ぬということ、そして、その人の死を乗り越えるものが、このイエス様の十字架にはあります。私たちは、聖霊によって、そのことを知ることができました。感謝います。このイエス様の十字架の希望と信仰を持って、それぞれの人生を送っていくことができますように、守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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