9月5日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は493(1)520(1)です。上棟式は9月12日午後1時からです。

礼拝説教      マタイ19:1~12「結婚についての教え」    2021.9.5

 9月に入りました。今日は、9月の最初の日曜日です。1週間の初めの日曜日に、神を礼拝することができることを感謝します。今は、いろいろな困難があります。先が見えない時です。それでも神の言葉を受けて、希望と喜びを持って歩む者でありたいと願います。

 イエス様の活動は、ガリラヤ地方でした。活動の最終目的のために、ユダヤ地方のエルサレムに向かって歩みを進めていきます。このマタイ19章では、いよいよイエス様の活動の完成をする時が近づいています。それは、エルサレムで十字架につくということです。ユダヤ地方で、最初にイエス様を出迎えたのは敵対しているファリサイ派の人々でした。それは、イエス様を試すため、陥れるために、十字架につけるためです。ファリサイ派の問いは、次のようなものでした。「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているのでしょうか」と。それは旧約聖書の申命記に書いてある内容です。

申命記24:1

人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。

 ファリサイ派の人々が、イエス様を試すために、問うているのは、結婚した夫婦がいかにして離縁するのかということです。結婚についての問いです。申命記の時代も、イエス様の時代も、そして、今の時代も、時代時代に応じて、いろいろな結婚の問題があったのです。申命記の時代も、イエス様の時代も、結婚における女性の立場はとても弱いものでした。大変失礼な表現ですが、結婚における夫婦関係は男性が優位に立ち、女性は男性の所有物のように考えられていたようです。イエス様の時代、イスラエルの人々の中に、この夫婦の離縁の問題ですが、2つの考え方はあったと言われています。その離縁の根拠となるのが、先の申命記24:1の言葉です。特に、夫が妻を見て、何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなった時は、男性は女性に離縁状を書いて、離縁することができたというのです。問題は、この男性にとって、妻である女性の何か恥ずべきこと、気に入らないこととは何かということです。

 1つの考えは、厳格であり、不品行、姦淫を犯した場合に限りとしました。もう1つは、幅広い考えです。何でもありのような感じです。例えば、妻より、素敵な女性に出会ったからとか、妻が自分の両親に前で、自分の両親の悪口を言ったからなどです。悲しい話ですが、後者の方が圧倒的に支持を受けていたというのです。そうなると、男性は好き勝手に結婚したり、離婚したり、ある程度自由にできたことになります。逆に、女性の立場は非常に辛いものでした。いろいろな離縁に関する問題が起こり、社会が混乱していたのでしょう。そのような背景があって、ファリサイ派の人々は、イエス様に質問してきたのです。イエス様に質問する形をとりながら、陥れるためのワナでした。この問いは、どちらに答えても、悪くなるように仕掛けられてしました。

 イエス様の答えですが、人間の結婚についての基本的なことを語り始めます。イエス様は「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とをお造りになった。」また「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と。これは創世記からの言葉です。

創世記1:27

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

創世記2:24

こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

 人間の結婚についての聖書の教えは、神が初めから人を男と女を造られたこと、人は父母を離れて女と結ばれ一体となった。1人の男性と1人の女性が結ばれ、結婚し、夫婦となることは、人間の業ではなく、神の業であるということです。結婚には神の意志がそこに働いているということなのです。この聖書の教えは、人間の結婚についての基本的なことが言われています。だから、イエス様は神が結び合わせてくださったものを、人は離れてはいけないというのです。だから、教会はある時期は、離婚を認めなかったのです。

 このイエス様の答えに、ファイサイ派の人々は納得しませんでした。更に質問を続けます。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」と。すると、イエス様は「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻とする者は、姦通の罪を犯すことになる。」といわれました。

 そうです。人間は罪を犯す前は、神の祝福の通りに、結婚生活を送ることができていました。しかし、罪を犯してしまったので、人間は神の祝福の中にあることができなくなってしまいました。この人間の罪の現実の中で、夫婦が互いに愛し合うことができなくなってしまったのです。すべての原因は人間の罪にあります。モーセの言葉には、これ以上に結婚生活を続けて行くことが困難な場合、離縁を許可しているということです。そして、離縁状ですが、これは男性の自由勝手を許さないことを指摘しています。誰も納得する理由があって、離縁するのでなければ、離縁は許さないということです。更に、イエス様が「不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる」と言っていますが、改めて男性の勝手な行動を戒めるものになっています。当時の弱い女性の立場を守るものです。

 これを聞いた弟子たちは「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言っていますが、これが弟子たちのわがままのように感じます。最後に、イエス様は「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者。人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」と、いわれます。

 結婚というのは、いろいろな形があります。人によってそれぞれの在り方があります。結婚する者、結婚しない者、結婚した後にいろいろなことがあります。イエス様は結婚について、基本的なことを語りました。神の意志によること、神の祝福の中で起ること、しかし、人間の罪によって。モーセが離縁状を渡して離縁することを許可したこと、その流れは、1人1人が、それぞれに与えられた中で、自分が生かされていると感じること、大切にされていると感じることなどを願って、言われています。

 私たち人間は弱い者です。神の前で愛を誓ったとしても、すぐに破ってしまうのです。愛し合うはずが、傷つけ合い、憎み合っています。神の御心はどこにいってしまったのだろうとかと嘆くのです。それでも、イエス様の愛は、私たちに注がれています。イエス様は十字架で、自分の命を捨ててまでも、私たちを愛し、罪を赦そうとしています。ただただ、このイエス様の十字架の前に、私たちはひざまずいて、神の愛にすがって歩む者でありたいと願うのです。

祈り 神よ。礼拝を守ることができましたことを感謝します。結婚についてのことを知ることができました。神の意志と、人間の罪の大きさの中で、いかに生きればいいのかと問うています。神の愛にすがって、少しでも良き人生の歩みをすることができますように、守り導いてください。イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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